2008年12月28日日曜日

2009年を迎えるにあたって

本当に久しぶりの更新です。
12月は思っていたよりものんびりと過ごしていましたが、ここに来て溜まりにたまった仕事が押し寄せて来て、辞めれば良いのに厄落としのような気分で大掃除まで始めてしまいました。
母のいない初めての新年です。
去年のお正月は今年もまた新年を迎えられて良かった、と母と話しました。色々あるけれど細々でもいいから生きていられればいい、と母は言っていました。その二週間後くらいに肝転移が分かりました。仕事の合間に聞いた母の留守電の声は今でも忘れません。
二度目のイレッサは効いていなかった、あなたの言う通りだった。今後の治療の相談をさせて下さい、と母は言っていました。

絶望的な気分の中仕事場に戻り、何事も無かったように仲間と会話をしている自分にびっくりしました。こういう状況に慣れていった部分もありましたが、自分自身が二分化されているような、変な感覚でした。

 あれから母の病状がどんどん下り坂になっていった経緯はこのブログにも書いています。
母自身の口から「こんな状態だったら早く死んでしまいたい」と再三聞かされました。私にとって苦しかったのは、母の辛さを少しでも肩代わり出来なかった事。完全に病床についてしまう前は抗ウツ剤も飲んでいました。
そんな中まるで運命のように日本に旅行に来てくれた母のスペイン人の友人。彼女は母の病気を知りませんでした。
来日して母のやせ細った姿を見て「何かがおかしい」と思ったようです。母の口から病気のことを聞き、ショックのあまり涙ぐみながら「人生はなんて不公平なの!」と言いました。
そう、人生は本当に不公平だと思います。何も悪い事していない、むしろ家族の為に一生懸命生きて来た母に何故人並みののんびりとした老後を過ごす事が許されなかったのか。本当に悔しいです。

彼女と母と一緒に旅行にも行きました。体力が落ちていた母は散歩も長い時間は出来ず、車中も宿でも寝てばかりでした。
「これが最後の旅行ね」と何度も言っていましたが楽しそうにしていました。三人で見た富士山は今でも瞼に焼き付いています。

俵萌子さんが先月亡くなりました。
母は俵先生が主催していた「1、2、3で温泉に入る会」の会員でした。この会は俵先生が乳がんになってから自ら発起した会で、乳がんの患者さんを中心に、切除手術をしていても皆で温泉に入れば怖く無い!をモットーに様々な旅行や会合を行っていて、母も二度旅行に参加しています。

 母が亡くなった際に会報用に母の思い出を寄稿して欲しい、とお願いを頂き、拙い文章を運営部に送りました。
ところが時期同じくして俵先生の乳がんの転移が分かり、会報がペンディングになりました、とのお知らせを頂きました。
先生の回復を願っていたのですが11月末に亡くなられたとの事、本当に残念でなりません。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。

僭越ながら寄稿した文をここに載せさせて頂きます。

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 母が末期の肺癌であるとの告知を受けたのは2006年3月の事でした。両肺に転移があり手術は不可能である事、抗がん剤治療の効果もあまり期待は出来ない、さらには余命は長くて一年だとも告げられました。それまで病気一つした事の無い母本人はもちろんの事、父も姉も私もその事実を受け入れられず、一気に闇の中に突き落とされたようでした。
 医師の余命宣告を大きく裏切り、あれから二年半、母はがんと戦い続けました。
色々な治療を試み、中には劇的に効く抗がん剤もありました。まるで病気の事を忘れたかのように元気に日常生活を送り、時には旅行で遠出をしたり、告知当初には思いも付かなかった安息の日々もありました。
 その薬が耐性となり他の治療に移行する中、病状はゆっくりと下り坂を辿り、2008年7月12日朝5時12分、家族3人の見守る病室で母は帰らぬ人となりました。67年の人生でした。
 
 明るく快活で表裏の無い性格の母には沢山の友達がいました。病気が分かってからもその友人達が常に母を励まし支え、最期の病床にも来客が絶えない程でした。
母の闘病に寄り添った二年半の間、思えば私にもどのような時にも支えてくれた家族や友人達がいました。人は一人では無いのだと、母は最後まで身を持って教えてくれたのでしょう。

 楽しみにしていた1.2.3の会の湯沢への旅行には行けずに旅立った母、これからはどこに行くにも一緒なのだと信じています。
 あなたの娘に生まれて良かった。今は悲しみの中にいるけれど、自分なりに精一杯、母にもらった命を大切に燃やし続けます。

2008年11月13日木曜日

 母が亡くなってから何度か母の夢を見ました。どの夢にも全部病気が分かってからの母の姿で出て来ます。
夢の中でも母は辛く悲しげな表情をしていました。きっとそれは私の頭の中で起きている出来事、亡くなる前の母の姿を鮮烈に焼き付けてしまったからでしょう。母が夢の中で私に会いに来てくれた訳では無いと思っています。

 ところが先日ようやく少し様子の違った夢を見ました。
父と結婚する前の母が私と一緒に買物をする、という夢でした。
結婚前の母は今の私より10才以上も若いのですが、夢の中で私は年下の母に「お母さん」と呼びかけていました。

 夢の中の母は溌剌としたとても明るい若い女性でした。
あるお店でペンダントを買う母を見て私は「ああ、この時に買ったのがこれなんだ」と思ったのです。夢はそこまでしか覚えていません。

 これ、とは母の遺品の中で私が一番気に入っている、母のイニシャルが彫刻されている小さい丸い金のペンダントです。裏には『8.Jun.1964』と彫ってあります。24才の母はきっと何かの記念にこのペンダントを買ったのだと思います。小さい頃良く母の胸にこのペンダントがあったのを覚えています。今は遺影にかけてあります。

 ほんの少しの間でしたが母に会えた気がしました。また母からは元気な頃の姿を見せる事で「いつまでも悲しんでいないで。私の病気はもう終ったの。今は楽しい頃の事しか思い出せないくらい安らかだからね」と言われた気もします。

 

2008年11月9日日曜日

もう11月

 久々の更新です。東京もすっかり冬の気温となり、朝晩は暖房が必要なくらいです。年々春や秋などの中間的な季節が短くなっていくのを感じます。初夏や初秋は一番好きな季節です。
 先日日光へ紅葉を見に行きました。あまりの人の多さに閉口しましたが、それ以上に圧倒的な紅葉の山肌にただただ感動するばかり。
ちょうど昨年の10月にも母と紅葉を見に白川郷や郡上八幡をまわりました。あれからたった一年しか経っていないのに随分前の事のように感じます。郡上八幡で人力車へ乗ろう、と母が言うのを私が貧乏性で「もったいないよ、歩こうよ」と言ったのに対して母は「もう二度と無いかも知れないから」と言い、一緒に乗ったのは今では切なく、尊い思い出です。

 母がこの世を去ってもうすぐ4ヶ月が経ちます。今になってどうしても会いたくなったり話がしたくなったり、様々な後悔や悲しみがこみ上げて来て情緒不安定気味になり感情がコントロール出来なくなる時があります。
 今年の4月末から強い吐き気が起こり起き上がれなくなり、入院、そのまま寝たきりになりこの世を去った母。67才と言えば現在ではまだまだ老後を謳歌出来る年です。
私のためでは無く、母自身の為にもっともっと生きていて欲しかったです。ようやく少し自由になれた老後をもっともっと楽しんで欲しかったです。

 生まれて初めての一人暮らしを経験している父は、想像していたよりはしっかりとやっています。娘たちには迷惑をかけないように父なりに一生懸命なのだと思います。月に一回は実家に3泊ほどしていますが、夕暮れ時になると庭でぼんやりとタバコをくゆらす父の姿を見ます。母が大切にしていた大好きな花でいっぱいの庭をキープしようと父は慣れない園芸も始めました。
花を眺めながら母の姿を見ているのでしょう。

 筑紫哲也さんが亡くなりました。
氏が番組で病気を告白した時、母はまだ生きていました。一緒にびっくりした事を覚えています。
分類までは発表されませんでしたが、氏はヘビースモーカーだったとの事、上皮扁平ガンだったのでしょうか。
いずれにしてもあらゆるガンの中で肺癌は本当に恐ろしい病気です。
 

 

2008年10月7日火曜日

悲しい別れ

 ここ数年仕事でご一緒させて頂いていた先輩が亡くなりました。
母の10才下で57才というあまりに早い旅立ちでした。
腎臓がんの再発から肝臓、肺、骨への転移があったようで、9月にお会いした時にはかなり辛そうな状態でした。
でも今年の三月に関西方面で一緒に仕事をして、終った後には散々飲んで騒いで、という事が出来たのに。。。病院で最後まで見送ったという奥様の憔悴しきった姿がとても他人事と思えず、お通夜では涙が止まりませんでした。

 あと一週間経つと母が亡くなってちょうど三ヶ月。早かったような、とてつも無く長かったような、そんな三ヶ月です。
母がいなくなって変わった事の一つとして、ガン関係のウェブサイトをマメに見なくなったという事があります。闘病中はほぼ毎日欠かさず新しい情報を探して、どんなに疲れていてもネットのチェックは欠かしませんでした。
 今はたまに見るくらいです。正直もう見る必要は無いのですが、一度でも深く関わった病気だけに、医療の行く先は気になります。

 このブログを読んで下さっている方の中にはご自身、もしくはご家族が闘病中の方も多くいらっしゃると思います。
何も出来ませんが、母の闘病中に私がお世話になったウェブサイトをほんの一部ですがご紹介出来ればと思います。
http://umezawa.blog44.fc2.com/
http://2nd-opinion.jp/
http://2nd-opinion.eee.ne.jp/
http://tugagu.blog34.fc2.com/

先上記三人の先生には母の生前、セカンドオピニオンを聞きに直接会いに行っています。
どの先生ももしかしたら医学会的にはマイノリティーなのかも知れませんが、ご自身の信念を持って治療に関わっていらっしゃる立派な先生でした。母は結果的にはどの先生の患者になる事も出来ませんでしたが(地域的な事情もあり)、セカンドオピニオンを聞けた事により主治医へのリクエストも出来て、何より自分自身の知識と納得の礎になりました。

 実家で母の部屋を整理しているとその頃の資料や書類が出て来ます。
保険診療では月一回しか計れない腫瘍マーカーを近隣のクリニックで自費で計っていた結果票、血液検査の結果のファイル、私の作成した主治医への質問ファイルとその回答、などなど。。。

 今更ながらに母も私たち家族も真剣に病気に立ち向かっていた事を思い出します。
でもたった二年半の闘病で母はこの世を去ってしまいました。本当に切ないです。

 海外では効果が立証されていながら未だ日本では認可されていない薬剤の数々、本当にもどかしいですね。





 

2008年9月27日土曜日

季節

 すっかり秋の空気になりました。朝晩は肌寒いくらいですね。
母が緩和ケア病棟に移った6月末は、これから訪れる盛夏を予感させる太陽がジリジリと照りつける頃でした。

 昨年の秋は母と岐阜の紅葉を見にドライブ旅行へ行きました。山肌一面の圧倒的な紅葉を見ながら一緒に蕎麦を食べたり温泉に入ったり郡上八幡で人力車に乗ったり。
そんな事を思い出しているとたまらなく悲しくなりますが、逆に行っておいて良かったと思う気持ちもあります。
思い出でどれだけ救われるかは分かりませんが、少なくとも無いよりは良いです。実際は旅行の間も「これが最後になりませんように」と祈るような思いもありました。
 闘病の間、母とは何度も旅行に行きましたがいつもそんな事を考え、楽しい反面の究極の悲しさのようなものを感じていました。


 母は67才で旅立ちました。親の死を迎えるにあたっていくつまで生きられたから納得して見送れた、というものでも無いとは思いますが、母の場合は平均寿命を考えるとあまりに早い死だったと思わざるを得ません。
 孫の成長を楽しみにしたり、夫婦水入らずで旅行に行ったり、習い事や趣味に精を出したり、どうして母には老後のそんな時間が許されなかったのか、その悔しさは今だに払拭出来ません。

 最近は亡くなる前の数週間の事をまざまざと思い出してしまい、苦しくなる事が多いです。夢にまで闘病中の母が出て来ます。
良く夢枕に故人が立つ、といいますが、私の夢はそういうものでは無く、自分の記憶がよみがえっているだけのようです。

 家族としては正直どんな状態でもいいから生きていて欲しかったと思っていますが、母本人はそれを望んでいませんでした。
「生きているというのは希望があって、美味しいものが普通に食べられて、副作用だの治療だのに悩まずに元気でいられる事」と亡くなる数ヶ月前の母は良く言っていました。その頃はウツの症状もあり精神科にもかかっていました。
 「こんな状態だったら早く死にたい」と言われる度にどうしようも出来ない自分自身に苦しみました。

 母は今安らかな安堵の中にいるのでしょうか。

 
 
 

2008年9月16日火曜日

月命日

 月命日は毎月訪れます。どれくらい重んじて良いものやら、今だに分かりません。
9月の月命日は一日仕事で、しかも何だか大変な出来事もあり、バタバタとしている内に思い出す事すら出来ない状態でした。
翌日から仕事絡みで早朝から地方へ行きました。
その車中で「あ」と思った訳です。
さすがに命日は忘れないとは思いますが、月命日でも忘れてしまう事は薄情だと捉える方もいると思います。
でも自分としてはほんの少しずつでもそれまでの日常に帰り、時間に雑事に追われているこの世を生きている姿を故人に見てもらえる方が供養になるのかな、なんて思ったりもします。

 それでも時折訪れる深い後悔や、単純に母に会いたくなる思いには抗えず、本当に悲しくなります。ある意味感情のバランスは完全に崩れているようです。一番辛いのは母が最後病院でどんどん日に日に衰弱していく様を不意に映像としてまざまざと思い出してしまう時です。
 亡くなる3、4日前のリハビリで「あと一ヶ月くらいでちゃんと歩けるようになりますか?」と理学療法士に訊ねていた時の母の声、表情、脳の治療が効を奏して食欲が戻った最後の数週間、「明日は何を食べようかな」といたずらっぽい顔で考える母の表情、それら全てが映像として現れて、たまらない気持ちになり叫び出したくなる事もあります。
 どこかおかしいのかな、と思う時もありますが、誰もがその様にして様々な形で支えを失い、自分のバランスを失って自分自身がオカシイのでは無いかと、思ったり、大丈夫だと確信したりを繰り返す。気付いてみればそれが普通の大人の人生なのかも知れません。


 母が亡くなってから初めて山に行きました。
関東近郊の低山でしたが頂上へのラストスパートはなかなかどうして、休みや休み行っても季節外れの大汗、息切れ、頂上に着いた瞬間、達成感と疲労で座り込んでしまいました。

 頂上には私たちととんぼ以外誰もおらず、少々ガスってはいましたが見晴らしも良く、気持ちの良い風が吹いて加熱した体全体を涼しくしてくれました。もう秋なんだな、と肌身で感じました。



 

 

2008年8月29日金曜日

納骨

 明日は納骨です。早いものでもう四十九日です。お墓は遠方ですので朝早く新幹線で行くのですが、嵐のようなこの天気...。
お寺さんに確認したら災害になる危険の無い程度の大雨ならば納骨は予定通り済ましましょう、との事。
でも新幹線が停まったら万事休す、です。
何とか予報を裏切る天候になって欲しい、と強く願っています。

 先日実家の母の部屋を少しだけ整理しました。
母は最後入院する寸前まで編み物をしていました。色々と多趣味だった母ですが、病気が分かってからは殆どを諦め、編み物が最後まで続けられた唯一の趣味でした。
 母は生前私に「私が編んでいるものは全部形見だと思って大事にしてね」と何度も言いました。
それが気になっていたので、手編みのものは全部圧縮パックに入れて、あまり圧縮しないように気を付けながら防虫剤と一緒に密閉しました。セーターやベストや帽子、数ヶ月前まで母が私の目の前で編み棒を持って編んでいたものばかり。触っているだけで涙が出ます。
姉や姪、母のごく親しい友人達で分けようと思っています。

 洋服やバッグ、その他諸々、、、あの旅行の時に持っていた鞄、着ていた洋服、などと気付いてしまうと思い出にふけってしまい、ついつい手が止まってしまいます。
まだまだ片付けられる時期ではありません。

 私自身の生活はすっかり日常に戻りました。
日々起きる色々な事を母に話したくなります。とても会いたいです。

 母は亡くなる数ヶ月前に病院へ行く車中で「もしも今はやっているスピリチュアルの話が本当だとしたら、私が死んだら絶対にあなたの近くで守っていてあげるからね」と冗談めかして言われた事があります。
 今の私にはアナザーワールドの事に思いを寄せる余裕もありませんが、母のこの言葉を信じて、母はいつも近くにいるのだと思う事で少し救われます。


 
 

 
 

 

 

 

2008年8月13日水曜日

最近

 母と最後に過ごした病室の事を良く思い出します。
千葉県内の緩和ケア病棟の一室で、窓の外は病院の広大な駐車場、その先には畑が広がる、見晴らしの良い部屋でした。

 緩和ケア病棟に移ってから母はあまり話の出来ない状態になっていました。
それでも脳転移の処置の効果が現れ、吐き気はすっかり抜けて毎日「◯◯が食べたい」と食事のリクエストがありました。
その◯◯を作るために車で5分くらいのジャスコに行き食材を揃え、病室の電気コンロの限界にチャレンジ!という感じで毎日色々と作っていました。

 母は貝のお味噌汁が大好きで、病室でも毎日必ず作っていました。
今でもしじみやあさりのお味噌汁を作るとお仏壇にお供えします。

 母が痰がつまり二度目に呼吸困難になった時に病室の担当看護士さんに呼ばれました。
自分の経験によるとそのような状態になってからの予後はあまり良く無い、なるべく一緒にいられる体勢は作れますか?との事、その言葉で私は仕事のキャンセルをして、後先考えずに病室に泊まり込みの生活を選択しました。

 その看護士さんは緩和ケア病棟専門の看護士さんで、私の話も良く聞いて下さいました。
また母の入浴の際には看護士さんが着るような防水の前掛けを私にも貸して下さり、一緒に体を洗ったり、マッサージをしたりさせてくれました。途中で入って来た職員の方が「あら?ご家族の方?」とびっくりしていました。とても感謝しています。

 心残りは最期にその看護士さんに会えなかった事です。
手紙を書こうか、電話をしようか、と考えながら日々時間ばかりが過ぎてしまいます。

 

2008年8月12日火曜日

明日

 明日8月12日は母の月命日です。
あれから一ヶ月。あっと言う間のような気もしますし、1年のように感じたりもします。
母はどこへ行ってしまったのか。
良く夢にも登場しますが、いつも闘病中の姿です。元気な時の母は出て来てはくれません。

 我が家に母の位牌が届きました。
父から分け位牌の許可をもらい注文していたのです。既に仏壇は用意していたので位牌を入れ、あとは納骨の時に位牌を持参して読経してもらえば仏壇として完成という格好になります。

 納骨の時に母の遺骨を少しもらおうと思い、仏壇に置けるくらいの小さい骨壺をネットでオーダーしました。

 まだまだ気持ちの整理は付きませんが、自宅に祈る場所がある事で少しだけ落ち着きを取り戻しました。
反面、様々な後悔が押し寄せて来ています。
 
 

2008年7月28日月曜日

コメントを頂いていて....

 公開、非公開のコメントを頂いていました。そのレスが遅くなりました事をこの場を借りてお詫び致します。
同じような立場で気持ちを分かって下さる方がいる事が今の私には救いです。
また、今現在も闘病をされている方々やそのご家族の皆さん、どうか体力を温存する事を第一に治療を選択していって下さいね。作用と副作用のバランスは医師では無く、近くで見守る家族が見て計る事だと私は思っています。
私は母が最後にした抗がん剤を、何故ペンディングにして、翌週からタルセバに移行しなかったのか、本当に後悔しています。
主治医はタルセバの副作用の危険性を示唆しながらも、上昇し続ける腫瘍マーカーの値を見て今までと同じ薬剤での治療を勧めました。
その判断が間違っていたと言うつもりも無いのですが、そこでその主治医の判断を阻止して別の方向性を示せたのは私しかいなかったと思うのです。タルセバが使える状態でいながら何でそれを言い出せなかったのか、決断出来なかったのか。
反面そこでタルセバに踏み切っていても効果が上がる確証はありませんでした。後戻りの利かない選択肢は常に賭けでした。

 見ないように、見ないようにしようと思いながら、母からもらったメールを探して読んでしまいました。
今年4月8日のメール。4月末に一緒に行こうと思っていた湯沢旅行の待ち合わせ場所を決める内容でした。結果その旅行には吐き気が治まらずに行けなかったのですが。
そのメールをもらった前日に母が桜を見たいとの事で、実家近くのある公園に二人で行ったのです。
母は珍しく「絶対にそこに行きたい」というような言い方をしました。

 桜は4割方散っていました。
正直私が東京で見ていた満開の桜からすると迫力に欠けていましたが母はご満悦で「綺麗だわ〜」と連発して、「これが最後の桜でも、もういいわ。」と繰り返していました。
その言葉が辛くて、涙を堪えるので必死でした。


 ざっと公園を一周して、母の色々な思いを聞きました。思えばそれが最後に母と過ごしたゆったりとした時でした。
メールには「今日は春の嵐が吹き荒れてなかなか眠れません。一緒に見た桜の事を思い出しています。本当に綺麗でした」とありました。
母の目に映った桜は、きっと私とは違うものだったのでしょう。
どうしようも無い悲しさに襲われています。

 

2008年7月24日木曜日

母が亡くなって

 もうすぐ二週間が経ちます。私にとってはとても長い時間でした。
亡くなる前の数日、亡くなってからの怒濤のような忙しい日々、しっかり母に思いを寄せて悲しむ時間なんてありませんでした。

 今もまだ実感はありません。ただとても気持ちが不安定になっている事を感じます。
すっかり日常に戻っていますので日々色々な事があります。あ、これを母に伝えよう、と思う度に「もういないんだ...」と思います。でもそこで泣いたり出来る程の暖かな感情の動きも無いのです。ただ愕然とするだけです。

 今日は仕事帰りに、母が5月に脳転移の処置で東京で入院していた病院の近くを通りました。胸が締め付けられるような気持ちになりました。あの頃は母はこの世にいて、毎日会えて、会話もしていたのに。あれからたった二ヶ月しか経っていないのに。
でも本当の悲しさはこれから来るのだと思います。

母の死に関して一つだけ良い事は、もう母は治療はガンの進行に苦しまなくて良いのだという事、そして私もその姿を見なくて良いのだと言う事。私たち親子の戦いはやっと終りました。

 なんだかぼやきのような記事になってしまいました。いずれにしても母が亡くなった後にこの形でのブログを続けるのは本意ではありません。近い内に別の形に置き換えるか、閉じるか、考えようと思います。せっかく「ガン友MAP」を通して訪れて下さった方をがっかりさせてしまうのは本末転倒です。

 




 

2008年7月17日木曜日

終りました

 昨日母の通夜、葬儀を終えました。
亡くなったその日から連絡関係、葬儀の準備、自宅通夜でしたので家の準備などなど...怒濤のような数日間でした。悲しんだり泣いたりしている時間も余裕もありませんでした。ある意味ありがたかったです。

 母はお骨になって小さな箱に納まりましたが、今でも母がいなくなった事が信じられません。玄関が開く音がすると母の「ただいま〜!」と言う声が聞こえてくるような気がします。車の助手席に座っているような、食卓に座っているような、そんな気もします。全く母の死を受け入れられていない自分自身を自覚しています。
 本当に死んでしまったのだと自覚する時に深い悲しみがやってくるのでしょうね。

 私が母の緩和ケア病棟病室に宿泊していた最後の二週間は正にプレゼントのような日々でした。
まだ食欲のあった母に食べたいものを聞いて一日3食作りました。日に日に体調が下り坂になっていくのは分かっていましたが、どうかこの日々が長く続くよう、祈るように毎日生きていました。
 
 緩和ケア病棟に移ってからは母は完全に寝たきりになっていました。それでも「自分で動きたいからリハビリがやりたい」と言い、毎日リハビリを受け、病院近くの温泉旅館に家族で行くのを目標にしていました。
 次第に痰が自分で出せ無くなり、何度か呼吸困難になり、呼吸を楽にする為にモルヒネの投与が始まりました。
病棟医師からは全身状態と症状からあと数週間だと言われましたが、実際はもっと早くに状態は悪くなりました。

 母のぜぇぜぇという苦しそうな寝息で眠れない日々でしたが、医師曰く、こちらが思うほど本人は苦しさを感じていないはずだといく事でした。その言葉を信じて、決定的に痰が喉につかえないようにだけ注意して見守っていました。

 この時点で嚥下が困難になっていました。意識レベルもどんどんと下がっていったようでした。
母と最後に交わした会話は何だろう、と今になって考えています。

 最後の会話をしたのは、私が夜、電話の用を済ます為に部屋を30分ほど外し、戻って来た時だったと思います。
滅多にそういう事を言わない母が「どこに行っていたの?不安になった。」と手を出して来たのです。その手を握り謝って、私は母に眠れないのか、と訊ねました。眠れないから睡眠薬をもらって欲しい、と頼まれ薬を飲ませました。
 それでも眠れないから何か話をして、と母に頼まれ、珍しい事を言うなぁ、と思いながら、私がまだ幼い頃、父のいびきがうるさくて眠れず、母と私でリビングに避難して、深夜インスタントラーメンを半分ずつ食べた話をしました。母は「そんな事あったかしらね。覚えていない」と言いました。
 その翌日から容態が悪化したので、多分それが最後の会話だったように思います。

 何だか支離滅裂な記事になってしまいました。
後日また書きます。


 

 

 

 

2008年7月12日土曜日

長らくのご無沙汰でした。

 母は今日7月12日朝五時十二分、安らかに旅立ちました。
最後の二週間、私は仕事を整理して母の緩和ケア病棟病室にずっと宿泊していました。とても貴重な時間でした。

 最後の一呼吸を母の手を握りながら見届けました。最期を看取れて幸せです。

 詳しくは落ち着いてから又アップしたいと思います。
このブログを通じて励まして下さった皆様、本当にありがとうございました。

 また書きます。

2008年6月24日火曜日

小旅行

 と言っても行ったのは私です。
母の長年の友人でご自身もご病気があり、車いす生活をされている方がいます。その方と娘さんたちが母の病院をはるばる訪ねて下さいました。母の告知以来、同じく病気を抱える立場から、母を支え、励ましてくれた方です。
せっかく行くのなら一泊で、という事になり、私も病院近くの同じ宿に泊まりました。海辺で、温泉もあり素晴らしい場所でした。私にとっては思いもがけない小旅行になりました。

 母とその方との再会はとても意味のあるものだったと思います。長年病気と戦っている彼女は母の体調や気持ちも分かり、今の状態でも出来る事、目標などの話をして下さいました。
 そんな事もあり、ご一家を病院玄関まで見送る為に母は久しぶりに車イスに乗り、外気に当たりました。
天気も良く母も気分が良かったようです。ご一家と再会を約束、そして近い目標としては私たちが泊まった宿に一泊外泊をする事。
 
 今の母は食欲も復活して来て、毎日「明日はあれを食べたい、これを食べたい」とリクエストします。
思考能力は落ちて来ているし、足腰はもう萎えてしまっていますが、食べられるのなら大丈夫、このレベルでも良いから安定して欲しいと思っています。

2008年6月22日日曜日

久しぶりに

 我が家へ戻りました。やっぱり落ち着きます。リラックス出来ます。実家とは言え、やはりもう自分の家では無い事を痛感します。
主人は仕事で留守にしています。冷蔵庫を覗くと中は綺麗さっぱり何もありません。野菜庫の中に少しだけ残っていたごぼうと人参と真空パックの大豆で友人が作ってくれたオーガニック野菜スープブロスを加えてカレーを作りました。明日の朝、仕事に行く前に玄米で食べます。

ここ数日、病院通いの道中に食べるコンビニのパンやおにぎり、夜は母のベッドの横でまたコンビニ弁当です。東京の病院にいた頃は手料理の弁当を作る余裕がありましたが今はありません。この空っぽの冷蔵庫からかろうじて体に良さそうなカレーを作ったのは自分に滋養を与えるためです。

 さて母の様子です。
昨日今日と殆ど食べ物を口に出来ていません。今日はまた吐き気があるようで、食べていないので唾液や胃液を吐いていました。
母の好きなメロンなどの果物も用意して行ったのですが、全く口に出来ません。
 うつろな目で空を見つめるか、眠っているか、時間を訪ねる以外は殆ど「YES NO」の首振りで会話をしています。

 入院当初、退院ばかりを勧めた若い主治医、さすがに最近は危険な状態ですので転院を言わなくなりました。
それどころか、父や私の真剣勝負の向き合いに何を感じてくれたのか、とても良くやってくれています。

 今の意識の低さの原因は本来の病気そのものが本当の末期に来ている事に起因しているのでは無いか、という事でした。内科的には輸血を始め、様々なフォローをしてくれているようですが、改善されません。 
 一説には「寝たきりになったショック」でうつろになっているという話もありました。だとしたらあまりに可哀想です。

 昨日は遠路はるばる仕事仲間が病院を訪れてくれました。彼女始め、主人、友人たち、様々な人たちに支えられて一日、一日を何とか乗り切っている自分がいます。一人で生きている訳では無いのだと感じます。
母は身を持ってそんな事も教えてくれているように感じています。

 毎日の変化が激しく、今後どうなっていくか、誰にも分かりません。
ただ私に出来る事は、何より自分自身が元気でいる事、そして一分一秒を大切に母と過ごす事でしょう。

 
 

2008年6月18日水曜日

近況報告2

 怒濤のような日々に全く更新出来ずにいました。
母は脳の治療を終えて、元々外来で治療を受けていた病院に転院しました。

 入院は出来たものの、そこでの若い病棟主治医にやはり退院を促され、どうして?いったいどうなっているんだ!!という怒りの中、母が深夜ポータブルトイレに自力で立とうとして転倒、頭を打って再び吐き気、加えて痴呆的症状が加わり、振り出し以下に戻ってしまうという事件がありました。

 せっかく抜けてきつつあった吐き気が戻り、記憶障害もひどく、転んだ衝撃で治療中の脳に何かが起きたのか、とても不安でした。東京の脳の主治医は「水頭症」の危険があると言い、父と二人でどこか逃げ腰の主治医を捕まえて脳のMRIを撮ってもらうよう交渉しました。
 そんな中急激に母は正気に戻り、吐き気は治まり、また食欲も戻ってきました。それ自体は良かったのですが、色々な事が起きていて、原因究明や自分のコントロールで必死です。

 がんに関してはしばらく無治療ゆえ、腫瘍自体の勢いが増して来たようで、血液の濃度が濃くなっているとの事、脳梗塞などの危険を避ける為に血液をさらさらにさせるワーファリンを東京の入院中に処方されました。すると今度はその薬が効き過ぎて肺原発からの出血が続き、呼吸が苦しくなり、貧血になりました。昨日は半日胸からの血を抜きました。2リットルくらいの血が抜けました。まだあるようですが、今は出血が止まっていると仮定して吸収されるのを待つのが良策だとの事。随時レントゲンで確認してくれているようです。

 そんな訳で父と私で真剣に主治医と向き合う中、主治医の態度も変わって来て、深夜でも変わった事があると電話をくれ、なるべく母が苦しまないように状態をキープしてくれようとする意志が見えてきました。当然もう転院の事は言いません。

 母は意識レベルが下がって来たというのでしょうか、受け答えや会話が噛み合ない事が多くなりました。昨日くらいから眠る時間がとても多くなり、色々な事がどうでも良くなって来たというか、拒否以外の事は全てなされるがままです。
 もう立ち上がったり歩いたりは無理だと思います。急坂を転げ落ちるように寝たきりになってしまいました。

 でも声も出辛いようですが会話は出来ます。
1分1秒でも母と一緒に過ごす時間を増やして、今この時を大切にしていきたいと思っています。
毎日必死ですが絶望はしていません。いつかは来ると思っていた時が来たまでです。でもまだ何が起きるか分かりませんね。もう一度旅行に連れて行ってあげたい、という気持ちをも続けていたいと思っています。



 

2008年6月9日月曜日

近況報告

 ここ数日は仕事に忙殺されこのブログもアップ出来ませんでした。
4日ほど東京を離れていましたので今日帰京したその足で母の入院先へ行きました。

 まず良い話をします。
吐き気は随分改善されて来たようです。食欲も徐々に戻りつつあり、本来大好きだった甘いものなども口にするようになりました。
三回の食事も毎回おかずは全部食べられるようになったようです。私が行ける時には必ず果物や生野菜、漬け物など母の好物を持参して行きますが、最近はそれも随分と食べてくれるようになりました。
 脳のMRI画像的にもサイバーナイフの標的であった小脳虫部腫瘍は縮小傾向にあるようです。

 そして悪い話....。
先日血液検査を行ったのですが、何とCEAが180になってしまいました...!告知直後は74だった事を記憶しています。今年2月の時点では50台と40台後半を行き来していました。そう考えると180なんてべらぼうな数値です。
母が腫瘍マーカーの推移と病変がイコールする傾向でしたので,先日行った画像診断の結果を聞くのが正直怖いです。
でも焦っても何も良い事はありません。今の全身状態では抗がん剤は無理、まずは体力の復活、という目標に於いては前進しています。
そう思う事で前を向く努力をしています。

 それからもう一つ、今の病院からの転院先が決まりました。
サイバーナイフ治療が終了した今や、早く病院を出て欲しいという事を病棟主治医から言われていましたので、今後は自宅に戻り在宅介護に切り替える、もしくは転院先を探す、という選択肢の中、後者を決断、もともと肺の治療を行っていた病院に戻る事になりました。
 その病院の主治医には私は好印象を持っていなかったので、今回入院を受け入れてくれた事が正直意外でしたが、診療科の多さや、今までの治療経緯の把握度を考えると正しい決断だったのかと思わざるを得ません。

 父は母に家に帰って来て欲しかったようですが、老老介護で共倒れになる可能性もあります。そもそも私や父以上に母本人がそれを懸念していて、入院を希望していました。
 私は仕事を整理してしばらく実家に生活拠点を移し、母を介護する覚悟もある旨をやんわりと伝えましたが、母は私の主人に気を使い、それはお願いしたくない、と言いました。

 自分に何が出来るのか、正直何でもしてあげたい気持ちがありますが、今後は母が真に望む事を引き出し、受け入れていく事が第一だと思っています。母があとどれくらい生きられるのか、そんな事は誰にも分かりません。ただ今母がこの世に存在していて、会話が出来る、一緒に食事が出来る、同じ時間を共有出来る、そんな当たり前の事が本当にありがたく、その1分1秒がとても貴重なものに感じる今日この頃です。

2008年6月3日火曜日

その後

 母の体調は相変わらずです。1日に何度か突き上げてくるような吐き気に襲われる事と、めまいがあります。考えたく無いのですが肺がんの方が進んでいるのか、変な咳を良くします。血痰は無いようですが、痰も良く出ます。

 今週中にもう一度脳のMRIの写真を撮り、問題箇所が処置されているかどうかのチェック、木曜日には肺と肝臓のCT、血液検査と腫瘍マーカーの検査をします。こちらの方は恐ろしいです。無治療後、どのような画像や数値になってしまっているか....
 
 一つ改善されているのは食欲です。無いのは相変わらずなのですが、「美味しい」という言葉が久しぶりに聞けるようになりました。
汁ものすらも戻してしまっていた先月の今頃を思うと随分の回復です。病院ではハーフ食と言って半分の量の食事が出るのですが、昨日のお昼は完食していました。さらに私の持参した漬け物やリンゴも食べていました。
今日も漬け物、酢の物、フルーツなどを持参して午後から病院へ行きます。

 昨日病棟担当医師から、今週いっぱいは自分が何とかするけれどなるべく早く退院して欲しい、というような事を言われました。
こんな体調で、しかもサイバー処置後の画像診断もしていない内に退院の話?!いったいどういう事なのでしょう。
 
 日本の医療制度、崩壊しています。本当に医療が必要な病人が安心して病院にいられない。
小泉の改革のせいだと父は言います。病院も、医師もいかんともしがたい所でしょう。
話が逸れるようですが、ガソリンも異常な値段です。まさに日本の政治は崩壊どころか腐敗し切っています。

 目下退院した後をどうするかが一番重要な問題です。
体調が戻ればなるべく早くタルセバの治療をしたい。ただそれをどこで行うか。もともとの主治医には父が連絡を取っていつでも戻れる状態にはなっています。その病院までは実家から車で1時間半、しかもそこはタルセバの治療は通院が基本です。入院治療は出来ません。
この体調では現実的な話ではありません。

私としては今の病院くらい都心にいてくれれば安心ですが、治療後の療養目的の入院はどこも出来ません。
せっかく吐き気の原因が究明出来て治療もしているのに全ての治療が中途半端な状態になってしまうのが一番避けたいことです。
んんん。。。。前途多難。脳みそフル回転です。
今考えられる事は今日、医療相談室に行く事です。

2008年5月30日金曜日

サイバー終了

 3日間の治療が終りました。やはりすぐに体調が改善される訳でも無いようで、今も母は吐き気と戦っている状態です。
食事は常食が出ていて毎食1/3くらいは食べているようです。希望が持てて頑張って食べる気にもなったのでしょう。

 今だふらつきも治らず、トイレに行く時などは支えないと危ない状態です。
30キロ代になってしまった母は枯れ枝のように細く、元気だった頃は丸顔で大きな目が可愛らしい母でしたが今は目も落窪んでしまい、トイレに行く度に自分の顔を鏡で見て「病人の顔ね〜」と言って落ち込んでいます。

 この3日は実家に行っている予定でしたので仕事は無く、日中は母の病室で過ごし夕飯を一緒に食べて帰宅すると言う日々でした。母は眠るでも無く横たわっている状態で、たまに話をするくらいですが、私にとってはとても貴重な時間です。母はどう思っているか分かりませんが、ただ近くにいるだけで私は幸せを感じています。

 この治療で本当に吐き気が抜けるのか。
先生は一週間くらいすればだんだんと良くなっていくとおっしゃっていたのでその言葉を信じていますが、今の母の状態を見ていると不安は払拭出来ません。
 また吐き気が抜けたとしても今の全身状態では無治療になっていた期間を取り戻すような抗がん剤治療が出来るのか、これも難しい問題です。

 前途多難である事は間違いないのですが、その時その時のどんな小さな幸せや喜びも大切に感じて、1日1日を大切に生きていくしか無いのだと思っています。

2008年5月28日水曜日

急展開

 母の吐き気は少しだけ良くなったような気がしていた数日間でした。依然横になってばかりなのですが、少しだけ声が大きくなり、会話をして笑顔も見られるようになってきました。
でも相変わらず寝返りをうったり立ち上がると吐き気がするようです。

 ここ数日は制吐剤としてステロイド剤も点滴に入っています。主治医曰く、そのせいで少し良くなって来たのでは無いかという事でしたが、これほどまでに治まらない、しかも姿勢によって訪れる吐き気はもしかしたら脳か三半規管の異常では無いかという事を数日前からおっしゃっていました。
母はそれを聞いて「もう一度サイバーナイフの先生に連絡を取ってみて欲しい」と言いましたが、センターの主治医からは「脳に問題無し」との所見をもらったのはつい先日5/8です。

 一方私と姉は今週から緩和病棟の面接を開始し、月曜日には最初の病院で既に入院許可をもらいました。
気持ちとしては複雑ですが、実家の近くの今の病院で点滴を受け続ける日々に限界を感じていたので、緩和病棟で吐き気が治まり、治療は出来なくなってもこれで気持ちが安らかになれば、と身を切られるほどの後悔と辛さがありましたが覚悟を決めようと思っていました。

 母に緩和病棟受け入れの話をして、本人も悲しげな顔はしていたものの、そもそも自分が希望していた事だからと木曜日の転院を決めました。そんなこんなでバタバタと今の病院の退院手続き、そして緩和への入院日の連絡、民間救急車の予約などに追われ後回しになっていたサイバーナイフセンターのM先生への連絡を昨日の昼頃しました。

 M先生は2月の検診の時は元気そうだったのに5/8の時にやっとの思いで東京のセンターを訪れた時の母の衰弱ぶりを気にして下さっていたようでした。入院先の主治医の所見を話すと、もう一度あらゆる可能性を想定して画像診断をしてみるとおっしゃって下さいました。
 そして20分後電話がありました。なんと小脳のめまい吐き気を起こす部位に脳転移の影があり、それがここ数週間で大きくなっていたとしたら吐き気の原因である可能性は大きいとの事、驚きました。

 5月の検査の時点でもその腫瘍があったとしたのならば単に見落とし?と言う気もしますが画像診断もそんな簡単な事では無いのでしょう。M先生は「なるべく早くこちらに来て欲しい。ベッドは用意しておく」との事で急遽昨日M先生のいる東京の病院へ転院しました。
 民間救急を頼む時間も無く、私の車の後部座席を倒して向かいました。

 そんな急展開があり今日から3日に渡ってサイバーナイフ治療を行います。M先生曰く「今連絡をもらっていたから間に合った。多分うまく行く」と。約一ヶ月がんに関しては無治療だったのでここ数週間で凄い勢いで腫瘍が肥大していたようです。
 先月のイリノテカン9回目の投与から吐き気が始まり、その症状から非常に紛らわしく脳転移によるめまい吐き気にスイッチしたので、あのまま緩和病棟に行っていたら「末期全身症状による吐き気」という事になっていた事でしょう。

 サイバーナイフ治療がうまく行けば再度ガン治療に戻れるかも知れません。
無治療期間、肝転移などを考えると前途多難ですが、久しぶりに希望が持てる治療が開始します。
また東京の病院という事で何かあればすぐに飛んでいける距離に母がいるという安心感は今までと全然違います。

治療がうまくいくように祈るのみです。

 

2008年5月26日月曜日

入院4

 母はまだ入院しています。もう二週間が経ちました。
先週は仕事が立て込んでいて実家には行けませんでした。毎日父に電話をして様子を聞いていましたが「今日も変わりが無い。」という会話を繰り返すばかり。
 今の母の状態において変わりが無いのは吐き気が抜けていないという事ですので、それを聞く度に落胆しました。父はほんの少しの変化にも希望を見出そうとしているようで、「今日は体を起こしていたから多少気分が良かったようだ」とか「(実家にいる)犬や猫の様子を聞いてきたからちょっとは良くなったように思う」など....父は父なりに前向きでいようとしているようです。

 何より母と直接話せないのが辛いです。家にいた時はどんなに具合が悪くても携帯を枕元に置いて私の電話には出てくれました。
テレビを見る余裕も無く、本を読む元気も無い母はただベッドに横たわっているだけです。とても無力な自分を感じます。点滴治療だけなら在宅でも出来ます。私が一時的に仕事を整理して実家に生活拠点を移せば母と家で過ごす事が出来ます。介護認定の申請もした事ですし。
 しかしながら母の気持ちもあると思います。もしかしたら娘には見せたくない姿もあるのかも知れません。でも「次」が無い事ですので、私は私なりに後悔の無いように母と過ごす時間を持ちたいと思っています。その気持ちを明日母に会った時に伝えられればと思っています。

 吐き気が治まらない、なかなか尿が出ず、出たと思ったら尿が紅茶のような色をしている事を考えても原因が肝臓である可能性は高く、転移性肝癌の治療は難しい事などを考えると、今すぐに未認可の頃に手元に置いてあったタルセバを飲ませてしまおうか、と考えてしまったりします。今は経口剤の飲み込みが吐き気により難しくなっています。でももしも吐き気が治まってくれればタルセバの服用も可能です。
重篤な副作用が出て命を縮めるかも知れない、でも万が一著効した場合、肝転移も小さくなる可能性は充分あります。
 一方今の病院の主治医は三半規管の以上では無いか、という事を言っていたそうです。いくら何でも肝臓が原因であったとしても体勢を変えるごとに吐き気がくるのはおかしい、と言うのです。


 先日仕事仲間の縁で整体気功を行う先生と知り合いました。
あれ程東洋医学や代替治療に異論を唱えておきながら、万が一の可能性にかけてその先生に母の入院する病院へ来てもらう事となりました。もしかしたら母が嫌がるかも、と思ったのですが、意表を付いて素直に受け入れてくれました。
 1時間くらいかけてお腹や頭に手を当てたりしてもらいました。先生曰く、腸がねじれているような状態になっていて、堅く固まっているとの事、お腹がカチカチだったそうです。どこまで症状が改善されるか分からないけれどお腹を出来る限り柔らかくしておいた、との事でした。
 あれから3日、顕著な効果は出ていませんがしばらく様子を見たいと思います。信じる者は救われる....のでしょうか。



 

2008年5月19日月曜日

入院3

 入院して明日で一週間経ちます。状態は変わらず、1日吐き気があるようです。声も日に日に小さくなっていくように思います。
週末は実家に滞在して毎日病院へいきました。病室へ入るとただ横になって目を閉じて、眠っている訳でも無い母の姿が目に入ります。
テレビを見たり何かを読んだりする余裕も無いくらいしんどいのだと思い切なくなります。

 点滴はビーフリードなどのビタミン剤と制吐剤であるカイトリル、プリンペランも入っています。
ビタミンはともかくとして制吐剤は効いていないようです。
先日のエコーで肝臓にいくつか肥大した転移ガンが写っていたようで、技師の所見だと吐き気の原因はやはり肝臓だという事でした。
この病院へは「体力回復」の為に入院しているので詳細な検査は出来ないのと、この病院においての主治医は肺の方の主治医に治療の主導権を委ねる事を最初段階で明言しているのであまり余計な事を言わないようにしているのが分かります。
吐き気の原因が肝臓だとしたら制吐剤は効かないのでしょうか?

ただ効かない制吐剤を入れていても仕方が無いので別種類のものに変えたりステロイド剤を投与してみたり出来るのかどうかを確認しようと思っています。

 県内の緩和病棟も3つ面接予約を入れました。
最近は緩和病棟でも積極的な治療をしてくれる所があると聞きます。調べているのですがどうもうまく情報が引き出せません。どなたかご存知の方はいないでしょうか?


話は戻ります。
こんな風にしている間に大元の肺がんや転移部がどんどん増悪していくのでは無いかという恐怖があります。
でも今の体力で治療が出来る訳でも無いでしょうから本当に辛い所です。
この病院にもいつまでいられるか分かりません。小泉改革はまさに弱いものいじめに他ならず、入院医療が必要な患者でも医療費の削減目的でどんどんと自宅に帰されてしまう現実を呼びました。

今日父が介護認定の申請に行きました。
今私たち家族が出来る事は現実的に準備をしていく事、希望を捨てない事、そして何よりも母の支えになる事ですよね。
このブログを読んで下さっている多くの方々は同じ思いをされていることと思います。お互いに自分の心身をキープしながら大切な家族を支えていきましょうね。

2008年5月15日木曜日

入院2

 火曜日に入院してから3日が経ちました。1日二回の点滴をしていますが今だ吐き気の症状は抜けないようです。いったいどうしてしまったのか、不安でたまりません。何よりも本人の辛さを考えると悲しく苦しい気持ちになります。
つい一ヶ月前まで編み物教室に行ったり、一緒に買い物に行ったり出来たのに...。

 しかし悲しんでばかりもいられません。
母を支える者としてしっかり現実を受け入れて出来る事は何でもして行きたいと思っています。
 
 入院した日は本当に辛そうで、母の心身は限界だったと思います。
病院へ行く寸前まで横になっていて、立ち上がるのも精一杯、やっと立ち上がったと思ったら吐き気が来てえづいてしまいます。
どうにか車に乗り込んで病院へ行きました。車いすに乗った母の痩せた背中を見ていると様々な思いがわき上がってきます。でも悲しみに浸っている余裕もありません。

 入院にあたっての身体検査で体重を計ったら37キロしかありませんでした。どうしてこんなに弱ってしまったのか。
どうして吐き気が抜けないのか。肝機能は数値的には正常でした。画像的な診断が待たれる所ですが今は検査自体も負担になるのでしばらくはペンディングです。

 入院前夜母と話しました。私は母にもっと生きていて欲しい、辛い治療はもうイヤだと思うし、私もそれは避けたいと思っている。
でももう一回一緒に旅行に行ったり美味しいものを食べたり、そんな日々を送りたいと思っている、と伝えました。
 すると母は「死ぬ事はもう怖くは無い。だから私が死んだらやっと楽になれたのだと思ってあまり悲しまないで欲しい。」と言いました。涙が出そうになりましたがぐっとこらえました。
 生きていて欲しい、でももう母には楽になって欲しい、この究極選択的ジレンマは私の人生にいったいどんな意味があるのでしょうか。

2008年5月13日火曜日

入院

 申し込んでおいた訪問診療の看護士さんが今日実家へ面談へ来てくれました。
母は横になったままでしたが看護士さんからの質問にしっかりと答えていました。

 既往歴に始まり肺がんの治療の経緯、今一番辛い症状などについて。
今一番辛いのは間違いなく継続的な吐き気です。本当に何とかして欲しいと思います。原因究明の為に予約した検査ももはや行ける状態ではありません。

 そんな母の状態を見かねてか、その診療所を通して明日から母は市内の病院に入院する事になりました。
 主治医のいる病院は車で1時間40分ほどかかる場所ですので、取りあえず体力を復活させえる目的で実家から車で15分くらいの市内の病院の入院を決断したのは賢明だったと思っています。また迅速に入院の手配をしてくれた看護士さんと診療所の医師に感謝します。

 このまま食べられない状態に甘んじて実家にいても何も良い事はありません。入院して点滴を受けて吐き気の原因を究明して再び肺がんの治療に戻れる事が目標です。

2008年5月10日土曜日

脳検査〜肺の診察

 一昨日母がフラフラの状態で上京しました。東京駅まで車で迎えに行き、送りに来た父とバトンタッチしました。
つい2ヶ月前まで普通に歩いていた母が今は支えが無いとふらついてしまいます。

 上京の目的はサイバーナイフセンターでの脳のMRI検査です。
母も私もセンターの主治医には多大な信頼をよせています。前に会ったのは3ヶ月前、母はこんな骨と皮みたいに痩せていませんでした。
衰弱した母を見て先生は「元気無さそうだね。でも良く来たね」と言ってくれました。

 検査の結果、脳転移は小さいものだけなので処置に値しないとの事。転移巣はあるにはあるのですが、落ち着いているようです。
継続的な吐き気と倦怠感はもしかしたら脳転移の増大、もしくは癌性髄膜炎?と懸念していたのですがそうでは無かったようです。
こんな状態の中、小さな安心感をもらえた昨日の検査でした。

 そして今日、肺の主治医の診察でした。
私が主治医に手紙を書いて母に託しました。今の母の体力低下に対して何らかの対処をして欲しい事、またこの吐き気と倦怠感が続くのはどういう原因が考えられるか、という事を聞きたかったのです。

 前者に関してはプリンペランという一般的な吐き気止め、胃腸の働きを助ける薬を処方されたようです。 
後者に関しては肝転移が進んでいる可能性があるとの事。考えたく無い事ですがあり得る事です。肺原発もさることながら肝転移は画像診断の度に数も増えて、大きくなっていました。
 そう思うのなら肝機能を計ったりしてくれても良さそうなものですが、あくまでも来週のCTを撮ってからの判断とされたようです。
来週CTを撮った所ですぐに結果が分かる訳ではありません。また一週空くのです。

 この主治医の対応にどう思いますか?吐き気や体力低下に対しても、少しの手間をかけてくれれば今日点滴も出来たはずです。
血液検査で肝機能を計る事も出来たはずです。
両親はそのまま帰って来たようですが、釈然としない気持ちでいっぱいです。私が同行出来なかった事を悔やんでいます。

 今の母の状態が主治医のせいだとは思ってはいません。病は進行していくものですし、そもそも末期の状態での治療でしたから主治医も手探りだったと思います。結果の保証出来る治療なんてあり得ない事は理解しています。
 ただ体調不良をおして通院して来た患者にその程度の対応しか出来ないなんてあまりに気持ちが無さ過ぎると思います。

 父に電話をすると、母の顔色が黒いような気がすると言います。実は私もそう思っていました。
もしも肝臓転移が悪化しているのであれば当然今後の薬の投与が厳しくなります。頼みの綱のタルセバも服用出来るかどうか分かりません。
そうなった場合はどうすれば良いのか。。。なるべく苦しまないように緩和病棟への入院が一番現実的な事かも知れません。

往診をしてくれる近所の診療所に連絡を取り、事情を話して今後自宅で点滴を受けたり、いざという時にすぐに看護師さんに来てもらえるような状況を作ろうと思いました。

今日は1日仕事。
没頭出来る仕事がある事に救われている反面、寂しく不安な想いをしているであろう母とあまりに遠く離れている現状が辛くなります。
仕事が終わり車に乗り込んだら力が抜けてしまいました。一人でいると涙が流れてしまう事が良くあります。

 

 

 

 

2008年5月6日火曜日

自分チャージ

 実家と自宅の行き来が今日で一段落です。GWの渋滞の中の移動はなかなか大変でした(しかもこちらは遊びではありません)。
次は母が東京に移動になった脳外科の先生の検査を受けに上京します。その先生は母が住む県内のサイバーナイフセンターでの主治医で、二年以上母の脳転移の経過観察、処置を行って頂いています。
素晴らしい先生で、県内の新しい先生に診てもらうよりも、先生の異動先にこちらが追いかける、という手段を取りました。

 依然倦怠感、食欲不振が抜けず、めまいも続いているので心配ですが、東京駅に着くバス乗り場まで父が送り、降り口まで私が迎えに行くという段取りになっています。

 実家滞在中は母は私に「もう治療はしたく無い、楽に死にたい」と何度も言いました。もう緩和病棟に行きたいと。
母はもう治療に疲れたのだと思います。無理もありません。前回の投与でヒドイ吐き気に襲われてこんなに体力が低下してしまった事、そして普通食が食べられるようになった今でさえ倦怠感やめまいが抜けず、本人も体力低下を自覚するがゆえに後ろ向きな気持ちになるのだと思います。

 親に「楽に死にたい」と言われたのは当たり前ですが生まれて初めてです。このような瞬間が今この時期に訪れるとは夢にも思わなかったです。でも娘として、辛くても悲しくても受け止めなくてはいけないのですね。
 それなのに母にうまく言葉を返せず、スキンシップも出来ず、ただ困惑している私。本当にダメな人間です。

 人は「どれだけ生きた」かでは無く「どう生きたか」がその人の真価なのだとしたら、私の知る母の生き方からすると現状は既に母の願う生き方からは外れています。だから緩和病棟へ行きたい、治療を辞めて楽になり、出来ればちゃんとした姿でこの世を去りたいのだと思うのです。治療に苦しむ1年よりも、解き放たれた三ヶ月の方が真の延命なのかも知れません。


 でも私は思うのです。生きていて欲しいと。母にこの世にいて欲しい。
この気持ちを伝えるべきか否か、悩んでいます。それがすなわち治療を積極的にしようとしない母を責める事にもなりかねないからです。

 母の告知以来、母や私を親身に支え続けてくれている母の従姉がいます。
母は彼女に「もう娘(私)にも嫌われてお父さんにも諦められているのよ」と漏らしたそうです。大きな誤解です。
私は母が大好きです。そりゃあ受け入れきれない程のネガティブな発言に困惑したりしたけれど、嫌っているなんてことはあり得ない!私は母に生きていて欲しい。そうで無かったらこんな思いにはなりません。

 これだけ近くにいる実の娘に対しても誤解とは言えそんな風に思ってします母の病人としてに深い孤独、孤立感を感じました。そこに寄り添う事は出来ないのでしょうか。

 

 


 

2008年5月3日土曜日

その後....

 本当にどうなる事かと思いましたが、母は取りあえず持ち直しました。今は吐き気も抜けて以前よりは少量ですが普通食を食べられるようになりました。
 ただ倦怠感だけは抜けず、1日の大半を横になって過ごしています。今までの母からは考えられません。それが心配ですが、その倦怠感がどこから来るものなのか、こればかりは調べようがありません。母は癌の進行によるものだと信じているようですが...。4日以上も普通に飲食が出来ない状態だった訳ですから、元気な人間でも相当衰弱するはずです。ただでさえ基礎体力が落ちている所に来たダブルパンチから立ち直るには今しばらく時間がかかると思いますので、焦らずに様子を見ていきたいと思います。
 
 焦らずに、と自分で言っておきながら焦らずにはいられない事が一つ。
それは前回の抗がん剤投与から10日ほど無治療になっている事です。ただこの状態で抗がん剤を体内に入れる事はもっての他ですので選択肢はありません。ただいつが治療の再開時なのかを見極めるのが難しいです。

 もうすぐサイバーナイフセンターでの脳MRIがあり(ここの主治医には多大な信頼をおいています)、その後現病院でのCT検査があります。これを一区切りに今後の治療を考えたい所ですが、その翌週に、母曰く「夫婦二人きりの最後の旅行」が以前から予定されていました。両親としては何としてもこの旅行を決行したいようで、私としても、最後かどうかはともかく是非とも行って来て欲しい気持ちがあります。

 そうなるともしも近日治療を再開したならば、次期治療薬剤の候補No1のタルセバを服用して日が浅い内に旅立つ事になります。それはあらゆる意味で不安ですのでタルセバを旅行帰りまでペンディング、となるといったいどれくらい無治療期間になるのでしょうか....ざっと20日強です。先月末のマーカーが10も上がっている事を考慮しても賭け以外の何物でもありません。

 今回の痛い経験から、母はもう点滴抗がん剤を受け付けられない状態だと思うので、それを除外するとタルセバ以外に残された薬は内服薬のTS-1しかありません。肺腺ガンにおいてTS-1は単剤での奏効はあまり望めず、あくまでも白金系との併用が推奨です。今の母が白金系の薬剤に耐えられるかどうか。まず無理でしょう。正に八方塞がりです。

 気休め程度にTS-1を単剤で飲む手も無くは無いですが、むやみやたらに薬剤を体に入れることにも抵抗があります。旅行と命とどっちが大事なのかと言われそうですが、この病期の患者にはもしかしたら旅行を優先させるのが前向きなのでは無いかと思ったりもします。
 以前頂いた非公開のコメントの言葉を借りると「残された日々がハッピーであること」はとても大事な事です。

 母の状態が良く無かったのでしばらくの間、凄い勢いで実家と自宅を行き来していました。実家までは高速を使って2時間〜3時間の距離です。もういい加減慣れましたが、昨今自分自身の気力体力の低下は否めません。
 実家に行けば1日最低2食の準備と後片付け、買い物、私が帰った後の食事の作り置きを考えたり、さらには抱えてる仕事も持参していたりしますので、うまく時間を使わないといけません。気がついて見ると我が家の事が全く放置されていたりもします。
 今日も朝から動きっぱなしでした。次はあれ、次はこれ、と段取りを考えて動くのですがなかなかはかどらず、そんな時に後ろ向きで絶望的な事ばかり言う母につい苛だってしまい強い口調になってしまったり(もっての他です)、少し耳の遠い父にも一度で話が通じずイライラしたり...良くないですね。まずは自分自身のコントロールをしなくてはいけません。
 
 こんな未熟な自分ですが帰りの車の中で思ったのは「こんな風に親の面倒を見られるのも親が生きている内だけだからありがたいと思わなくてはいけない」という事。そう思ったら涙が出て来てしまいました。


 

2008年4月27日日曜日

副作用 その2

 1日経っても全く良くならない、と母が言うので今朝近所の病院に救急で入りました。脱水症状を防ぐ点滴をしてもらう為です。
昨夜は本当に吐き気がひどく、少し立って動くと戻してしまう、という本当に辛い状態でした。胃には何も入っていないのに吐いてしまう苦しさは想像を絶するものです。不謹慎ですが、私もかつてお酒の飲み過ぎで近い症状になった事がありますが、たった1日でも相当苦しかったのにそれが70才近い老人が4日も続いているなんて、どれだけの体力の消耗でしょうか。

 薬は抜けているはずなのにおかしい、このまま衰弱してしまうのでは無いか、という母の不安が現実にならないように、今後隔日くらいで点滴をして水分補給をしながら、完全にストップしてしまった胃腸をゆっくりと動かしていかなくてはいけません。
 こうなったら癌治療は二の次です。体が弱っているところで癌の勢力も落ちて欲しい!と願うばかり。

 点滴が終わり、私が車を出口に回していると、ふらつく母の手を父がしっかりと握ってこちらに歩いて来るのが見えました。頑張れ、お父さん!私がいない時もしっかり母を支えてあげてね。
 うどんの煮方、おかゆの作り方など、紙にしっかり書いて伝授して来ました。

 実家を後にする頃には母は湯冷ましを飲んだり、リンゴを少しだけ食べたり、ごく少量のおかゆも食べられました。
そもそもが健康体では無いので回復は遅いと思いますが、点滴のおかげか、ゆっくりと上向きになっている事を感じています。

 栄養学に詳しい友人が母の状態でも食べられそうなレシピを送ってくれたり、母の親戚がまめに連絡をくれたり、このブログにも非公開の励ましコメント、メールを頂いたりもしました。色々な人たちに支えられています。ありがとうございます。

 母が回復して癌治療を再開出来るとしたらタルセバしか無いと今は思っています。

 

2008年4月26日土曜日

副作用

 水曜にイリノテカンを投薬してから4日が経ちました。今まででしたら副作用が抜けて楽になっている頃です。
今回は何故だか今だにひどい吐き気が抜けません。水を飲んでも戻してしまいます。固形物は入りません。

 4日間何も食べていない事から衰弱がひどく、歩いてもふらついてしまいます。
声を出したり立って歩いたりすると吐き気がひどくなるようで寝ている事しか出来ません。仕事を整理してなるべく実家に長期滞在出来るようにはしていますが3日が限度です。
 70才を超えた父は自分の事はかろうじて出来ますが、母の事は何かしてあげようと思っていても的外れな事ばかりしています。仕方ありませんね、この年齢の男性ですから。
 
 近所のクリニックで点滴を、と思っても本人が点滴の事を考えただけで吐き気がする、と拒否をします。
しかしそうも言ってはいられません。本当は今すぐですが、あと数日これが続くようなら危険な状態ですから何かしらの手を打たなくてはいけません。

 私が一番恐れているのが、これが副作用では無かった場合の事です。
何故なら多くのがん患者さんの終末期と症状が似ているからです。でも抗がん剤の投薬日までは割合元気にしていたのにそんな急に、という疑問もあります。
 今までの薬の蓄積で今回は特にひどく副作用が現れているのであれば早く抜けて欲しいと切に願います。

 今週の通院の際に腫瘍マーカーが上がっているから、と減量では無く標準量を投薬してしまった事を強く後悔しています。私が一緒にいながら、何故母の体調を一番に考えずに主治医に従ってしまったのか、悔やまれます。
 イリノテカンに見切りを付けてタルセバに移行する為に一週休薬、という事にすれば良かった、と今となっては思います。

 

2008年4月24日木曜日

通院日

 久しぶりに母の通院に同行しました。
先週の休薬から今日は予定通りに投薬です。母は投薬の事を考えるだけで吐き気がこみ上げてくるという、精神的にも圧迫されている昨今です。
 しかも先週計った腫瘍マーカーCEAが突然10も上がってしまいました。来月の連休明けには脳検査、翌週にはCT検査が待っています。毎度の事ではありますがどうしても嫌な予感ばかりがよぎります。

 イリノテカンの副作用はイレッサの時ともナベルビンの時とも違い著しくQOLを落とすものです。吐き気から食欲も無く痩せて、ちょっとした事でふらついてしまう母を見るのは辛いです。
 今日は投薬直後に吐いてしまい、「もうこの治療を辞めたい」と仕切りに言っていました。ただただ可哀想になります。もう治療自体を辞めさせてあげたい、と思う気持ちと生きていて欲しいと思う気持ちのジレンマがあります。
いずれにしてもこれでは本末転倒、治療で弱ってしまうのは母の病期にはとても危険な事です。
 今日主治医は「副作用は大した事は無いですね」と言いました。吐き気が辛いから減薬を何度も申し出ているのに。

 CEAも上昇している事ですし、薬を変える時期かも知れません。次の選択肢としてはTS-1単剤、もしくは白金剤との2剤投与、アムルビシン単剤、もしくはタルセバです。タルセバに期待せずにはいられない状況ですが、脳検査、CTの結果を待ってからの決断が賢明だと思っています。でもそれまでの半月をどう凌ぐかが問題です。
 思い切って無治療にしたらどれくらい進行してしまうのか、誰にも分からない事です。逆に治療を半月休んだら体力が戻るかも知れない、と言う淡い期待もあります。

 このブログを訪れて下さる皆さんも今後の治療に頭を悩ませている事と思います。後戻りの出来ない決断ですものね。
でも本人の意志を尊重した上で「選んだ事が正しい!」と信じていくしか道は開けないように感じています。

 

2008年4月15日火曜日

新しい週の始まり

 週末は仕事でバタバタと過ごしていました。今日明日と休日です。やらなくてはいけない事は山積みなのにどれも中途半端な状態で放置したまま。自分の集中力と実行力の無さを痛感します。

 母は今週は休薬です。
副作用による食欲不振が少しでも改善されればとヒスロンHの服用を始めました。効果の程はまだ分かりませんが、少しでも食欲が出てくれれば精神的な部分も改善される可能性があるのでは無いかと思っています。

  
 最近心がけている事....
一日に数分間でもきちんとリラックスする事です。きちんと、と言っている時点でいかに私がリラックス下手かがお察し頂けるでしょう。
そうなのです、貧乏性というのでしょうか、心身を緩める事が苦手なのです。
しかも常に大きな心配を抱えていると知らず知らず心と体が緊張して息が浅くなっているような感覚があります。だからこそ少しの間でも頭の中を空にして、しっかりと深く呼吸をするのが大事なのではと思い、ここ最近友人から借りた瞑想の本を読んでいました。
 瞑想(メディテーション)というと宗教じみた匂いを感じる人もいると思いますが、私にとってはリラックス法の一つです。本に付いていたCDのガイダンスに乗っ取って座って呼吸を繰り返しているとなかなか良い気分です。
なかなか頭の中を空にする事は出来ないのですが、目を閉じてなるべく良い景色や楽しい事をイメージしてみたりして肩の力を抜いて....すると突然「にゃ〜!!!」という声で我にかえりました。しかも我が家の猫は瞑想体勢で座っている足の間に入ってきて即座にゴロゴロとリラックス状態に。
私の瞑想は中断されましたが、ある意味猫から自然にリラックスする事を学んだ気がします...。
 
 このブログを読んで頂いている患者家族の方々も心身疲労が溜まる日々だと思います。何かおすすめリラックス法があれば教えて下さいね!

2008年4月8日火曜日

また雨....

 昨夜から嵐のような雨が続いています。肌寒く、仕事部屋の暖房器具を片付けてしまったのを後悔しています。

 週末実家へ行きました。
近隣のクリニックで自費で検査してもらっている腫瘍マーカーの結果が出ました。採血してから外注するので結果はいつも一週遅れです。
画像では若干の進行が見られたものの、CEA自体は少し下がっていました。最近は40後半の数値を行ったり来たりしています。多大な効果は見られないイリノテカンですが、病気の勢いを食い止めているくらいの効き方はしている、無治療だったらきっとこうはいかないと思う事で納得するようにしています。
 
 副作用は相変わらず辛いようです。吐き気、手の痺れ、めまいなど...。
一週間一度の投与だとようやく抜けた頃にまた次回の投与日が来てしまいます。気持ちが悪くなる、と分かっている薬を投与するストレスを考えると、「もう治療なんか全て辞めてしまいたい」と思うのも無理もありません。最近では病院の建物を見るだけで気持ちが悪くなるようです。

仮に私だったら耐えられるのだろうか、もしかしたらもうとっくに音を上げているかも知れない、と良く思います。 
母に生きていて欲しい、と願うばかりに過酷な治療を課しているのは私なのでは無いか、と思ったりもします。
母は「こんな思いをするくらいならいっそ無治療で死んでしまいたい」と言う時もあります。その度に罪悪感を覚えるようになり、今後の事は母の意志を一番に尊重して決めていくべきだと改めて思ったりします。それでもやはり目前にあるタルセバ、命がある内に認可されるかも知れないアリムタなどを試して欲しい、と思ってしまうのは私のエゴなのでしょうか。

 二年間の闘病で色々な事がありました。色々な先生のお話も聞きました。
脳転移が発覚して落ち込んだり、イレッサが想像以上に効いて大喜びしたり、肝転移が分かってまた落胆したり......。
明らかなのは病気はゆっくりと進行している事、悲しい事実ですが受け止めざるを得ません。
 
 先を考え過ぎると暗くなるので、思考をブロックするように近いスパンの事しか考えないようにする変な癖も身に付きました。
母親の看病を10年以上続けている友人がくれたメールに、「もう母には無理して頑張って欲しいとは思わない。辛い様子をずっと見て来たからますます思う。今はただ側にいて出来る事をしているのみ」とありました。自分には深い言葉でした。
 
 辛い選択ですが、無治療というのが母が本当に望む形なのだとしたら従うべきなのかも知れません。
元気な頃の母を思うと自分がどんどんと治療で弱っていくのは堪え難い事なのだと思います。もちろん無治療でいるその先を考えるとどちらが楽なのかは今は分かりませが....。

 常に病気と向き合い、治療に費やしてきた二年間、本来なら老後を謳歌出来る年齢です。
病気の事を何も知らずに元気だった頃の母を思い出すと切ない気持ちになります。でもそれはたった二年前なのです。何だか信じられません。

 弱音めいた記事になってしまいました。
このブログにコメントを下さる方々は私と状況が似た方が多く、本当にいつも励まされています。この日本のどこかに同じような気持ちを抱えて生きている人がいるのだと思うだけで救われた気持ちになります。この場を借りてお礼を言わせて下さい。

2008年4月2日水曜日

様々な治療

 4月になったというのに北海道では大雪の荒天候、関東でも肌寒い日が続きます。満開だった桜も散り始め、これから新緑の季節ですね。

 母は今日8回目のイリノテカンの投与を終えました。
先日のCTでは若干の原発、転移ともの増大が認められていますが、タルセバを目前に薬を変えるという選択はあえてしていません。
 それにしてもこの短期間に8回もの抗がん剤投与をしていると考えると母の肉体的、精神的消耗疲労はいかほどのものかと思います。ウツ状態になるのも無理はありません。

 話は少し変わります。
ここ最近、漢方治療、鍼灸、気功その他の東洋医学をベースとした治療法や、心理療法というのでしょうか、カウンセリングなどを交えた治療に関わる人が身の回りに増えています。
 私自身そういった西洋医学以外のものに興味が無い訳では無いのですが、ネットで検索しているとあまりに多くのサイトがそういった治療をベースに癌が消えた、などとうたっている事がわかります。健康食品の類のサイトも癌ビジネスと言われるほどに数えきれない位沢山あります。
(健康食品は東洋医学とは一線を画していますが)
 告知をされたばかりの患者や家族は化学治療への恐怖からそういったものに可能性を求めて逃げてしまう心理があると思います。実際私もそうでした。早い時期に気付き、化学治療をベースに置かないと命を縮めるだけだという事が分かったのは幸いでした。

 母が告知されてから、もしや効果があるかも知れないと友人に、その筋では有名なとある気功師による気功治療を勧められました。電話で遠隔治療も出来るからと言われ、実際どういうものかを見る為に自分自身が受けに行ったりもしました。改善の程を計る為にその時は慢性的なドライアイを治したい、という名目で行ったのですが、効果があったのか無かったのか、一回ばかりでは何とも言えませんが、少なくとも癌という病気が治癒する類いのものでは無いと感じました。

 身の回りにも東洋医学的治療信奉者、もしくは実際に治療に関わる友人がいます。
このブログは友人達には非公開にしていますのではばかる事無く言わせてもらいますが、彼らの多くは東洋医学的視点に偏り過ぎていて、西洋医学的な治療に関して全くの勉強不足だという事を私は感じています。むしろ西洋医学には否定的だという共通点もあります。
 真の意味で治療に関わるのであれば、両サイドの知識を持ち、足らない部分を補うという姿勢が必要なのでは無いかと思っていますが、なかなか私のその思いを伝える機会はありません。

 母の病気の事が無ければ私もこんな事は考えもしなかった事ですが、乱暴に分けるならば、今起きている症状を治める、というのが即効性のある西洋医学的発想、長い目で体質改善から、というのが東洋医学的発想なのでは無いかと思っています。癌という疾病に関して言うならば体質改善している間に命が無くなってしまうかも知れません。
 それより何より気功や漢方で癌が治るのであればこれだけ多くの人が癌で亡くなりはしないでしょうね。

 東洋医学、または健康食品を否定するつもりはまるでありませんが、癌のような重篤な病の領域に治療という名目で入ってくるのは患者や家族の悲劇を生むので辞めてもらいたいと思うのです。それを行う側、扱う側もしっかりと西洋医学治療で使う薬の種類や効果も把握した上で、あくまでも補助的治療として提唱する、というあり方でいて欲しい、と切に願います。

 これこそ私の偏見なのでしょうか。

 

2008年3月29日土曜日

桜の季節

 桜が満開になりましたね。うちの近所にも数カ所お花見スポットがあります。
この季節の週末になると花見の人たちでいっぱいになります。ゴザを敷き酒盛り、カラオケ、大騒ぎ....はっきり言って興ざめです。
だいたい提灯なんていらないし!!せっかくの桜が台無しです。
ひねくれ者と言われても仕方ありませんが、静かに桜を見たい私はもっぱら夜桜見物です。これも場所を選ばないともっとヒドイ事になっている場合もありますが...目黒川とか...。

 桜の季節になると思い出すのは母の告知直後の頃の事です。
あまりのショックで私自身一時的にうつに近い状態になってしまいました。見るもの全てが味気なく灰色に写っていたあの頃、気持ちとは裏腹に木々は芽吹き桜は満開。
 春の樹々の暖かい匂いの中、そのもの凄い生命力に励まされながらも、母はあと何回この桜を見られるのだろう、と複雑な思いにかられていました。きっとこれから先もずっと、この季節がめぐり桜を見る度にあの複雑な気持ちを思い出すのでしょうね。

 さて母の近況です。
 ここにきて二年間の治療の疲れが出たのか、精神的な落ち込みが激しく「こんな辛い治療をして生きていたって意味が無い。いっそ無治療でいてすぐに死んでしまいたい。」とまで言い出しています。
 イレッサ以降これという薬に巡り会わず、現状維持以上の効果を実感出来た薬の無い中、副作用ばかりがクローズアップされる治療を続けてきました。それでも今こうして、疲れやすくなったとは言え日常生活も出来て、軽い旅行も行ける状態にある事は薬の効果があったのだと思っていますが、母にしてみたら転移が進み食欲が無く痩せていく事は恐怖以外の何者でも無いのだと思います。
 
 元気な人間から無防備な励ましの言葉はかけられません。「前向き」になんてなれるはずも無く、根拠の無い「大丈夫」も全く逆効果です。本当に無力です。
 思い返してみれば脳転移が見つかった時、イレッサが耐性になった時、肝転移が見つかった時、同じくして母は激しく落ち込んでいました。
 その都度何かしらの希望のある治療の糸口を見つけて立ち直ってきました。今回もその糸口が見つかれば良いのです。

 そんな中県内の呼吸器科の専門病院を訪ねました。転院を視野に入れてのセカンドオピニオンを聞く為です。
 母の今の病期、精神状態に必要なのは「良い病院」の肩書きよりも「良い主治医」が必要だと判断し、今回のセカンドオピニオンに関しては●具体的な治療法をいいくつか挙げてもらえるかどうか●治療に関してこちらの要望を聞いてくれそうな医師か●標準治療以外の治療に理解はあるか
 などが自分のポイントでした。

 結果まずまずだったと思います。
物腰は穏やかなものの、一貫して自分の意志をぼかし、こちら側に決断させてやり過ごそうという体勢の今の主治医よりは希望を与えてくれそうな印象の医師でした。
現状の治療(イリノテカン)をしばらく続け、効果が無くなってきた時期にタルセバに切り替える予定ですので、その時に転院するか否かを決めよう、と両親と話しました。
ちなみにその病院ではタルセバはとっくに処方されているとの事、それも好印象でした。

 血液検査から支払いに至るまで全てがシステマティックに素早く進む今の病院と訪ねた病院とでは施設規模でいうと雲泥の差があり、母はそれが気になるようです。
そんな事より大切な事があるのでは無いか、とこちら側からは思いますが、毎週通う身になればストレスを軽減出来る大事な点なのかも知れません。
 
 メリット、デメリット熟考して判断しなくてはいけない大事な事です。
焦らずに決めたいと思います。あとは母の精神状態が少しでも改善される事を祈るのみです。



 

2008年3月16日日曜日

近況です。

 いつの間にかすっかり春の陽気になりました。仕事が立て込んでいた先週末から一息つく間も無く今週は3日間関西にいました。
どういう訳か関東ではさほどでも無い花粉症の症状が関西で全開状態となり、片鼻は完全ブロック状態、目と喉がかゆく、まさに取り出して洗いたい気分でした。マスクと薬で対処しましたが、なかなか厳しいものがありました。

 このブログにも患者さんご本人はもとより患者家族の方々にも訪れて頂きコメントも頂けるようになりました。(コメントはメール通知されてからのアップですので表示まで多少時間差があるのでいつもご迷惑をかけます。)
決して明るい内容のブログでは無いのですが、母の病状を伝える事により新しい情報を頂けたり、少しでも何かの参考にして頂いたり、又私も一人では無いのだ、と思える心強さを頂けてありがたい限りです。先月旅立たれたミームラさんに改めて感謝の気持ちでいっぱいです。

 母はイリノテカンの6回目の投与を終えました。標準量での投与ですので数日間はむかつきがあり食欲不振が続くようです。
CEAは数値が高いもののしばらく横ばいです。母の通う病院でも4月までにはタルセバの処方が可能になるようですのでそれまでの繋ぎの治療としては適しているもの、と信じて投与を続けていますが、肝転移も小さいものですが多発的に転移しているので原発共々なんとか増大を食い止めるられる程度の効き方はしていて欲しいものです。

 それにしてもタルセバ。
まだまだ未知の薬ですよね。国内でのデータが少なく、今分かっている以外の副作用も懸念される所ですので処方されるようになっても待ってましたとばかりに飛びつく訳にもいきません。でも今の母の状態改善に一番適している薬は現状タルセバしかありません。イレッサ著効群にタルセバは高確率で効くとは言われていますが、これも必ず、という話ではありません。

 効かなかったらどうするか、と考えるとまた落ち込んでしまいますので、あまり過大な期待をせずに次の手を考えつつタルセバの処方を待ちたいと思います。
 
 とても信頼のおけるサイバーナイフセンターの主治医は「もしも脳転移があったら処置するだけ。そう、淡々と、今まで通りね。」と言います。その言い方がどこと無く可笑しくて先生なりにこちらを和ませて安心させようとして下さっている感じが伝わります。

 淡々と...という心境にはなかなかなれませんが、冷静に治療と向き合う状況を作れるのは主治医と本人の関係はもとより、患者家族の心のありようが大切だと思いました。決して諦めずに病気と向き合う強さを患者本人に求めるのは酷な事だと思います。近くにいる家族が、患者を支えるにあたって過剰に感情的にならず今後を考えていける強さを身につけなくてはいけないのだと思いました。
 私のような弱い人間にはなかなかの修行です.....。

2008年3月3日月曜日

セカンドオピニオン

 今村先生のセカンドオピニオンに行ってきました。勉強会で学んだ事を反芻し、更に詳しく聞きたい点を母と話してまとめて聞く事が出来ました。今日は良い話が出来たと思います。

 近々のCT画像を持参したのですが、現病院では2〜3個と言われていた肝転移がもっと多発している事が分かりました。原発の大きさは3〜4センチ、イレッサ著効時で1センチ台に縮小した事を思えばやはり進行している事実は否めません。
 しかもその原発は背骨に隣接した場所にあり、非常に骨転移の危険を孕んでいる事もわかりました。

 そう書くととても悲観的なのですが、今村先生の考え方は、症状の無い肝転移や肺内転移に関して過剰に神経質になる事は無意味である、病気全体を見る事が必要で、転移箇所や数だけに一喜一憂するのは「木を見て森を見ず」状態であるとの事。言わんとしている事がとても良くわかりました。

 タルセバが使えるようになるまでにまずはQOLを保ちつつ、現状維持出来る治療を優先的に行うべきで、それに関しての先生の治療のビジョンを充分に聞いてこられたのでとても有意義でした。

 いずれにしても母の病気の現状に関しては初めて知る事が多く、現主治医の説明不足、治療のビジョンの無さを思い知るばかりでした。
 今村先生曰く、それは主治医というよりも病院自体の考え方、モットーのようなものであるとの事。つまりは末期ガンのような予後が明るく無い患者に対しては事実を全て伝えるというよりはぼかす部分はぼかして不安感を与えずに柔らかくやり過ごす治療とでも言えば良いでしょうか。
 それも考え方次第では悪くは無いと思います。でもその流れに乗っていたら母は今この世にはいなかったでしょう。具体的に転院を考える準備をしようと思いました。

 未認可薬の使用するタイミングや金額に関しても具体的に話せました。
母は自らの病気の現状を改めて知り、新たな不安感に襲われていると思います。でもまだまだ希望はあります。それが分かりました。

 病人本人の抱える不安感、孤独感はごく近くで支えてる家族ですら分かり得ないものだと思います。同じように、生きていたい、生きていて欲しい、と心から願っていてもやはり本人には成り代われない、肩代わりも出来ない。
 私が母に生きていて欲しいと思うがあまり、色々調べて話を聞きに行き、主治医と治療に関しての交渉をして、という一連の行為が果たして母のとってどうなのか、時にはそれが息苦しくなる事もあるのでは無いか、と思ったりもします。

 正直聞き飽きたくらいの励ましの言葉「前向きに、あきらめないで」。
そんな事は分かっていて、既に毎日精一杯立ち向かっています。患者家族でさえそんな気持ちですから、患者本人は毎日普通に生きていく事だけで精一杯なのかも知れません。そんな人に「頑張って」も「前向きに」もありません。
 どうしても頑張れない時、落ち込んでしまう時に安心して落ちていける場所が患者家族のあり方なのでは無いかと、色々な事があり、そう思うようになりました。



 ガン友MAPのミームラさんが亡くなりました。
このブログをMAPに加えて頂く際にとても親切に対応して下さり、お母様と私は同じ病気ですね、一緒に頑張りましょう、と言って下さいました。
 ミームラさん、本当に悲しいです。悔しいです。でももう戦わなくていいのですね。ゆっくり休んで下さい。ミームラさんの存在に助けられた多くの患者さんや家族がいます。それがミームラさんの生きた証として皆の心の中に永遠に残ります。
 本当にありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 
 

 

2008年2月24日日曜日

勉強会へ行ってきました

 今村先生の「がん患者のあきらめない診察室」の勉強会へ行ってきました。
今まで何度か申し込んできましたが参加がかなったのは今回が初めてです。さぞや多くの参加者がいるのだと思っていましたが、10数人という予想よりも少ない(希望は殺到していたと思いますが)参加者数で、予想外のアットホームな雰囲気の中、未認可薬や新薬の話、個別の質問もゆっくり出来ました。

 今回聞きたかった事...
肺原発、両肺転移の悪化と肝転移を抱えている今、母の今行っているイリノテカン単剤での治療という方向性が正しいかどうか、また今後の治療に関しての今村先生の見解、この2点です。

先生の回答は、イレッサが著効したのであれば分子標的剤を治療の中心におくべきで、今行っている抗がん剤治療は言わば「繋ぎ」的な考え、命を脅かさない程度の増悪であれば副作用の少ない抗がん剤を選んで続行が正解、との事でした。
 サイトを見ていますのでイレッサローテーションの考えは私にもあり(タルセバの使用はもちろんの事)、納得出来ました。
問題はその増悪がどれくらいのスピードでどのような状態へ進むかなのですが、それは誰にも占えません。

 イリノテカンは白金剤と併せるのが良いと他からのアドバイスもありましたが、先生曰く、シスプラチンは私たちくらいの年齢の人間でもかなりグロッキーになるらしく、母の年齢を考えると良策では無いとの事。

 肝転移に関してはPETに映らないくらいの大きさであれば局部治療は逆に不可能だという事、3、4センチの大きさになったらラジオ波やノバリスで処置をする考えも無くは無い、との事でした。要するに肺から飛んでいるものであれば原発をコントロールするのが第一で、転移はそれが原因でPSが落ちるような状態にならなければ共存を目指すのが良いという事だと自分の中で納得しました。
 どのような処置も体には負担があるものですから、無駄に体力を奪うよりは経過を見るというのが今の段階では妥当なのでしょう。

 参加者は患者さんご本人やご家族の方ばかりで、今日は肺腺ガンの方が多く他の方のお話もとても参考になりました。
イレッサ著効例でもその後脳転移が多発するという分子標的剤の特性については、アバスチンの投与で防げるというのが先生のお話でした。母の場合はイレッサが効いていた間は脳転移は抑えられていたのですが、耐性と診断されてナベルビン単剤の投与に変えてから一ヶ月足らずで20個以上の多発脳転移が見つかりました。
 脳はサイバーナイフセンターで診察を受けていますので3日間で10数個の処置を行い、処置の必要の無い小さいものに関しては今も経過観察中です。

 日本では大腸がんに認可されているアバスチンですが、海外では非小細胞ガンでの効果が認められているにも関わらず薬価が高く、厚労省がなかなか認可をしないようです。先生の情報だと2、3年中には、という事でしたが難航しそうな雰囲気だとおっしゃっていました。
 現状自費での投与という事になりますが、一回の投与でだいたい30万弱だそうです。選ばれた人にしか出来ませんね。

 効果が分かっていながらなかなか認可されない薬は他疾病でも沢山あると思います。製薬会社と厚労省役人たちのどのような利害関係がうごめいているのかは分かりませんが、自分たちの家族がその薬を必要としている場合を考えても同じような対応でいられるのでしょうか。

 今日は驚いた事が一つ。
それは母と同じ病院、しかも同じ主治医の患者さんがいた事です!
「主治医が国立ガンセンターのデータばかりを言い、融通がきかなくて困る」という事をおっしゃっていたので「ああ、うちと同じだな」とは思っていたのですがまさか同じ主治医だとは!スピリチュアル通では全くないですが、驚くと同時に何か導きのようなもの(?)を感じました。

 勉強会終了後に場所を変えてそのご夫妻とお話させて頂きました。奥様が腺ガン4期、イレッサが良く効いてお元気に職場復帰もされたようですが、今後の耐性や転移を懸念されての参加だったそうです。母よりも一回りほど若い方でしたが、とてもお元気そうに見えました。なるべく長くイレッサが効く事を祈るばかりです。

 長くなりましたが最後に。
今日参加されていた方々の中にも様々な理由で主治医に疑問や不満を抱えている人が多い事がわかりました。
一つの病院、一人の主治医と心中したくなければ自ら知識を付けてセカンドオピニオンや実際の診察をもって自分で主治医を増やす事が大事だと先生はおっしゃっていました。これは平岩正樹先生のセカンドオピニオンでも言われた事です。

 母は今肺の主治医、サイバーナイフセンターでの脳外科の主治医、近所のクリニックで腫瘍マーカーの自費診察をお願いしている先生と三人の主治医がいます。また肺の主治医がなかなかCTを撮ってくれないので、同じ近所のクリニックの先生の紹介状で近隣の大病院で月一回CTを撮ってもらっています。
 やっている事は間違っていないのだとしたら、今後の治療がうまくいく事を祈りつつ頑張るしかありません。



 
 


 

2008年2月15日金曜日

余談です。

 友人から送ってもらった本「天国へのビザ」を読みました。
現役の医師が尊厳死に関して書いた本です。著者は自分の意見を述べるでも無く、実話を淡々と書いているのですが最後は涙が止まらなくなりました。
 生まれる事、死にゆく事、誰にとっても一生に一度しか無い特別な事です。
 自らの病を知り死と対峙した時に残りの人生をどう生きるかはせめて自分で決めたい、と誰でも思うのでは無いでしょうか。でも悲しいかな、病によってはその選択の自由も無いのです。

 本の中にはほんの少しですが老人介護施設に触れた部分があり、その短い文に強く同感を覚えました。
ガン治療の話とは離れた話になってしまいますが、私にも老人介護施設に関しての苦い体験があります。

 数年前、義母と義父が同時に具合が悪くなった事があります。
色々ないきさつがあり、義父を一時的に介護老人施設に預けるという運びになりました。その際に10数件の施設をまわり、面接を受けました。
 受け入れ先の審査は厳しく、短期間に、各施設で数々のかなり突っ込んだ内容の質問をされ、挙げ句入所を断られるという繰り返しに精神的にも厳しい日々でした。

 その中で訪れたいくつかの施設に私は正直「怒り」を覚えました。
とある施設で面接を行った職員は20代前半の女性、やたら明るく、「何でも言っちゃって下さいね!」と場違いな笑顔を私に向けて質問を始めたのです。
 変なペンの持ち方で誤字混じりにメモを取り、語尾を伸ばす話し方や敬語の使い方が間違っている事が気になりながらも、何よりも自分の作り込んだ明るさがこちらの気を和ませると信じ込んでいる勘違いに逆撫でされました。
 何故このような若い娘に家族の極プライベートな事を話さなくてはならないのか、と途中退座したい気持ちを堪えました。

 もう一つの施設では胸のポケットにタバコの箱を覗かせた若い女性が出て来きました。その女性は前述の女性に反して終始表情は暗く、声も小さくマニュアル通りに質問を続け、最後に家族用の用紙に書いてある内容を「規則なんで一度頭から音読して下さい」と私に告げました。仕方無く読み上げましたが、まるで無意味なこの行為を強要させられるのは、やはり家族の気持ちを逆撫でする以外の何ものでもありません。

 このような仕事には資格がいるのだとは思いますが、面接という、直接家族に関わるデリケートなシーンには紙面上の資格では無く、ある程度同様の経験があり心境を理解出来る職員、もしくはきちんとした対応の出来る年齢の(もしくは常識的知性のある)職員を出すべきでは無いでしょうか。
 
 医療にしても介護にしても、施す側にそれを受ける側の気持ちを真に察してくれる人がいるのといないのとではあり方がまるで変わると思います。
 
 ブログの主旨とはずれて何だかただの思い出し愚痴のようになってしまいました。
 

2008年2月10日日曜日

また雪が降りました

 東京は今年2度目のまとまった雪。夕方からみぞれのような雨が降り始め、八時頃には真っ白い雪になり、都心の道路にも積もりました。渋谷ではピンヒールを履いた若い女の子がスペイン坂を下れずに困っていました。

 時代に逆行した屈強な4WDに乗っていますので滑る事無く無事帰宅、洗濯を済ませワインを飲みながらPCを開きメールをチェック。
 一通、良い知らせがありました。母の告知以来毎日見ているサイトはいくつかありますが、その中でも特に先進的、かつ実用的な情報が得られるサイトがあります。そのサイトの主催である医師の勉強会へ参加出来る事になりました。
 未承認薬の可能性や承認薬の希望の持てる組み合わせなど、有効な情報を得られるといいのですが。
 
 未承認薬と言っても少し前のタルセバのように海外から個人輸入しなくてはいけないようなものと、他ガンには既に承認、使用されていて、非小細胞ガンには保険適応が無いものとありますね。
 前者に関しては金銭的な問題や、国内での副作用のデータが無さ過ぎて手を出すにはなかなか勇気がいります。混合診療などにうるさい昨今では黙認の上診察してくれる医師も少ないようです。完全に個人の責任の元で新薬を投与するのはかなりの冒険です。
 タルセバはその後一般病院での処方は開始しているという話をあまり聞きません。母の通う病院ではまだ使用出来ません。いくらイレッサの一件があったとは言え慎重すぎる気がします。これではますます国内での副作用のデータが取れずに悪循環を生むのでは無いでしょうか?

 後者に関しては海外では既に効果が認められて承認されているアバスチンやアリムタなど、薬剤としては日本に普通に存在しているものです。何が承認への流れを食い止めているのでしょうか。患者の安全性?予測される副作用などを考えるともちろんそれもあるはずです。でもそれだけでは無い何かを感じざるを得ません。1日も早く適応になって欲しいです。
 
 
 
 

  

2008年2月6日水曜日

検査結果と経過

 昨日はサイバーナイフセンターでの脳MRI、今日は血液検査と抗がん剤投与の日でした。
脳検査の結果、小さい転移は存在しているももの、増大は無く、むしろ退化している転移巣もあるようで、まずまずの結果でした。
2度目のイレッサを投与していた12月の1ヶ月間で肺がんが進行してしまったので脳転移の進行は覚悟していたのですが安心しました。無効だと思っていたイレッサが最後の力をい振り絞ってくれたのでしょうか。
安心...と言っても常に期限付きなので気は抜けないのですけどね。

 脳の検査はいつも同行していますが、肺の主治医に会うのは久しぶりでした。
3度目のイリノテカン、初回は半量、前回は標準量を投与、前回の投与後の副作用がちょっと辛かったようですので(下痢と吐き気)今回は初回と前回の間くらいの量を、と思っていたのですが「初回は様子見で減量しましたが通常はそういう事はしません。私が把握しているのは標準量でのデータですので」と言われ、今回までの三回で1クールなので標準量の投与を勧められました。
 初回の投与から一週間後のCEAは下降していましたのでイリノテカンは効くかも知れない!との願いを込めて標準量の投与を決心しました。効くのなら数日間の副作用は我慢する、との母の決断です。

 肝臓転移に関してのはっきりした返答はもらえず、「この段階でどこに転移したからそこを局部的に叩く、という事では無く、まずは肺原発の進行を止めるのが先決です」と主治医曰く。
 患者側からして見れば転移は病気の進行度を表すものとして受け止めるので、そう言われてもあっさり納得は出来ずはぐらかされた感があり...とは言え言われている事が分からない訳では無いので引き下がりました。
 
 まずは骨髄抑制が無く抗がん剤を投与出来た事は良い事、次回のマーカーとCTの結果を見て今後の事を話し合いたいと思います。
久々の通院同行で主治医と患者とのコミュニケ−ションの難しさを改めて感じました。
 

 

2008年2月4日月曜日

海へ

 今日は休日、仕事仲間と遠出をしました。
神奈川県の海の見える公園の山を登り、海沿いを歩き、砂浜でしばし時を過ごしました。砂浜からも冷気が上がってくる程の寒さでしたが白く寄せる波の音を聞き、心が軽くなるのを感じました。
公園内にはすでに梅が芽吹き、白い水仙が沢山咲いていて春が近い事を実感しました。
山は内に入る、海は解放だと言います。どちらも自然の命の宿る場所、生命力に溢れる樹々や花、土や水に触れると慌ただしい時間の流れが本来のスピードに戻り、ゆったりと安らぎを感じます。

 初回イリノテカン投与後の腫瘍マーカー(CEA)の結果が出ました。59から49に下がっていました。母の場合、CEAがほぼ忠実に状態を表すので一週間で10も下がったのは良い兆候です。薬の選択が正しかったのかも知れません。このまま全身に作用して肝臓の転移も治まってくれると良いのですが。

 白金製剤+タキサン系+アバスチンの治療が欧米では効果が上がっているようです。
今後アバスチンが肺がんに保険適応される可能性もありますし、それ以前にタルセバの処方がもっと浸透するはずです。諦めずに一歩一歩、進んで行きたいと思います。

 闘病とは良く言ったもので、本人はもとより家族も毎日病気との戦いです。
心が疲れた時には大自然にチャージを求め、頑張っていきたいと思います。
明日は脳MRI検査です。

2008年2月2日土曜日

2月になりました。

 忘れもしない2006年3月1日、母は肺腺ガン4期との告知を受けました。
あれから2年弱、母の病の事が頭から離れた日は一日もありません。
母がまだこの世界に生きていてくれる事に感謝を込めて、まだまだ治療の可能性を諦めてはいけない!と思い続ける日々です。
 インターネット上で知り合った母と同時期に同じ病期で告知を受けた方々の訃報が入る度に大きな悲しみと無力感に襲われます。
でも私たちが立ち止まって悲しむ事を旅立った人たちは微塵も望んでいないでしょう。
無理矢理にでも前向きに気持ちを持っていくしかありません。

 イリノテカンの二回目は思い切って標準量を投与しました。
そのせいか二日目くらいから下痢と食欲の副作用が表れ、やっぱり量が多かったのか...と反省。
抗がん剤の投与量と効果は並行しないものとは言っても少なすぎる量では奏効は望めず....体力とのバランスを見ながらの治療を行ってくれる病院があるといいのですが、なかなか一人の患者にそこまでの時間をかける訳にはいかない、というのが大病院の現状でしょう。

2008年1月31日木曜日

ありがとう。

 母の告知を受けてから約2年間、毎日訪れていたブログがあります。
「こぶこぶたの毎日」、母と同じ肺腺ガンの患者さんのブログです。そのこぶこぶたさんが40才という若さで旅立たれました。

 こぶこぶたさんにはお会いした事はありませんが毎日ブログを読む事で、いつも前向きにご自身のご病気に立ち向かっていく姿や、彼女を支えるご主人やお子さんたち、ご両親やご姉妹の暖かい家族模様に触れて、私にとっては一方的ではありますがかなり近い、大きな励みとなる存在でした。
まだお母さんを必要とする年頃のお子さんたち、ご主人の心中を思うと悲しいというよりも苦しくなります。
 
 どんな事にも意味がある、という考え方は好きです。
でも同時に「こんな事にいったい何の意味がある!」と思う出来事も沢山あります。若い方の病による死にはいつも強くそう感じます。

 こぶこぶたさんのブログに励まされた方は本当に沢山いらっしゃると思います。
見ず知らずの私のような人間の中にもこぶこぶたさんの生きた証があります。ありがとう。
 
こぶこぶたさんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

 

2008年1月24日木曜日

 朝起きたら窓の外が妙に明るく、まさかと思ったら雪が舞っていました。既に積もり始めていて、仕事へは車で行かなくてはいけないので不安でしたが出かける頃にはみぞれに変わっていました。
雪が降る事で生じる様々な不便をよそに、いい大人が心のどこかで「雪だ!!」と喜んでいるこの心理、何なのでしょう。私だけでしょうか。東京に暮らす人間の呑気な話ですね。

 母の薬を替えての治療が開始しました。
今回からはイリノテカン単剤です。激しい下痢の副作用が有名な薬剤ですが、ヒットすればとても良く効く薬だそうです。
どうか最低限の副作用で最大限の効果がありますように!!と虫の良い祈りをささげています。

 ここ数日、肝転移の治療を模索しています。
数年前に転移性肝ガンにも保険適応になったラジオ波治療、母の場合は原発の進行が著しい事で主治医からは有効性を否定されました。
画像に見えている転移を叩く事よりも今必要なのは原発と転移巣の進行を止める全身的な治療、すなわち抗がん剤治療だと言う訳です。理解出来る内容ですが、ラジオ波による治療を抗がん剤治療と「併用」して進行を食い止めるやり方もあるようです。
 色々な種類、組み合わせがある抗がん剤の有効性に関しては個人差があり、実際に投与してからの評価しか指針は無いようです。肝転移がある事でこのようなトライアルが果たして可能なのかどうか、そこにも不安があります。

 2月に頭には脳転移の検査もあります。その結果も怖いです。
...と不安材料を挙げればきりが無いので,今は「何とかなる!」と信じて日々生きていきたいと思っています。


 

 
 
 

2008年1月18日金曜日

報告

 あまり良く無い報告です。
2度目のイレッサの効果の程を見るべく行った先日のCT検査で肝転移の所見がありました。脳転移があった時からいつか来ると覚悟はしていたのですが実際起きてしまうととても冷静に受け止める事は出来ませんでした。
母はついこの間まで2度目のイレッサが効いていると信じていたようで、CEAを調べて一向に下がらないどころか上昇の一途を辿っている事に疑問を感じてCT検査をしました。

 この状態での肝転移がどれくらい厳しい状況か、告知からガン治療の事を調べ続けて来た私には分かります。頼りにしていた薬も使えなくなる可能性もあります。でも諦めません。現実をしっかりと受け止めて前向きにこの状況でも戦える方法を模索して行きます。
 原発性にも転移性にも効果のある肝臓ガン治療にRFA(ラジオ波)もあります。全身的に改善を見られる可能性のあるタルセバも発売間近です。試していない抗がん剤も沢山あります。

 思った以上にガンの進行は早く、イレッサが効いていない事にもっと早く気付いていれば、と後悔の念もありますがそれは考えても仕方の無い事。
 母はまだ元気に日常生活を送っています。そこを見つめて、その時間を可能な限り長く続くように努力したいです。

2008年1月6日日曜日

2008年のスタートです。

 このブログを覗いて頂いている皆さん、明けましておめでとうございます。
週明けから仕事始めの方も多いと思いますが私は明日からです。今月は自宅での仕事が多くなりそうです。ガソリンも高いし、風邪も流行しているのでその方が都合が良いくらいですが、適度に運動をしないと体重増加が危険な季節です。

 お正月に実家へ行きました。
両親と過ごす新年がかけがえの無い大切な時間のように感じています。過剰に感傷的になる事を極力避けて来ていましたが、母が告知を受けて二回目のお正月、家族で過ごした風景を目に焼き付けておこうと思いました。
数年前には思いもしなかった事です。
年末に、一方的ではありますがweb上で心の支えにして来た方たちの急変や急逝が度重なり私自身気弱になっているせいも有り、楽しい時があると裏腹に「これがいつまで...」という悲しい考えが浮かんでしまうのです。


 二回目のイレッサは幾分効果が上がっているようで、咳が治まってきたようです。後は画像診断、マーカーの推移の如何で効果の程が計られます。二回目という事は耐性の付く時期も早いのでしょうか。母は次の治療を探しておいて欲しい、と言っていますが、どうせなら長く効いて欲しいものです。

 次の治療、と一言で言っても難しい判断です。決して引導を渡す事の無い主治医に意見を求めても不毛です。
平岩正樹医師の著書と主治医からもらったレジメン表を見比べて見た所、まだ試していない薬剤、組み合わせが沢山ある事が分かりました。
 イレッサ耐性後は誰もが薬の選択に頭を悩ますようです。母の場合、脳転移との時間の戦いもありますし、知識と決断力のいる問題です。

 母の希望で脱毛の副作用が少ないものから試したいとの事、必然的にタキサン系の薬は外れます。白金系の薬剤は副作用が心配ではありますがシスプラチン+TS-1、もしくは単剤投与が主流のアムルビシン、イリノテカンあたりを主治医にリクエストしつつ意見をあおぐつもりです。投与量も少なめから増やして行く、という方法を取りたいと思っています。

 タルセバがいつから使えるようになるのかが分からないのですが、今タルセバを使ってしますと切り札が無くなる、という不安があるようです。その気持ちも分かります。
 難しいですね。どなたかご意見頂けるととてもありがたいです。