2008年5月30日金曜日

サイバー終了

 3日間の治療が終りました。やはりすぐに体調が改善される訳でも無いようで、今も母は吐き気と戦っている状態です。
食事は常食が出ていて毎食1/3くらいは食べているようです。希望が持てて頑張って食べる気にもなったのでしょう。

 今だふらつきも治らず、トイレに行く時などは支えないと危ない状態です。
30キロ代になってしまった母は枯れ枝のように細く、元気だった頃は丸顔で大きな目が可愛らしい母でしたが今は目も落窪んでしまい、トイレに行く度に自分の顔を鏡で見て「病人の顔ね〜」と言って落ち込んでいます。

 この3日は実家に行っている予定でしたので仕事は無く、日中は母の病室で過ごし夕飯を一緒に食べて帰宅すると言う日々でした。母は眠るでも無く横たわっている状態で、たまに話をするくらいですが、私にとってはとても貴重な時間です。母はどう思っているか分かりませんが、ただ近くにいるだけで私は幸せを感じています。

 この治療で本当に吐き気が抜けるのか。
先生は一週間くらいすればだんだんと良くなっていくとおっしゃっていたのでその言葉を信じていますが、今の母の状態を見ていると不安は払拭出来ません。
 また吐き気が抜けたとしても今の全身状態では無治療になっていた期間を取り戻すような抗がん剤治療が出来るのか、これも難しい問題です。

 前途多難である事は間違いないのですが、その時その時のどんな小さな幸せや喜びも大切に感じて、1日1日を大切に生きていくしか無いのだと思っています。

2008年5月28日水曜日

急展開

 母の吐き気は少しだけ良くなったような気がしていた数日間でした。依然横になってばかりなのですが、少しだけ声が大きくなり、会話をして笑顔も見られるようになってきました。
でも相変わらず寝返りをうったり立ち上がると吐き気がするようです。

 ここ数日は制吐剤としてステロイド剤も点滴に入っています。主治医曰く、そのせいで少し良くなって来たのでは無いかという事でしたが、これほどまでに治まらない、しかも姿勢によって訪れる吐き気はもしかしたら脳か三半規管の異常では無いかという事を数日前からおっしゃっていました。
母はそれを聞いて「もう一度サイバーナイフの先生に連絡を取ってみて欲しい」と言いましたが、センターの主治医からは「脳に問題無し」との所見をもらったのはつい先日5/8です。

 一方私と姉は今週から緩和病棟の面接を開始し、月曜日には最初の病院で既に入院許可をもらいました。
気持ちとしては複雑ですが、実家の近くの今の病院で点滴を受け続ける日々に限界を感じていたので、緩和病棟で吐き気が治まり、治療は出来なくなってもこれで気持ちが安らかになれば、と身を切られるほどの後悔と辛さがありましたが覚悟を決めようと思っていました。

 母に緩和病棟受け入れの話をして、本人も悲しげな顔はしていたものの、そもそも自分が希望していた事だからと木曜日の転院を決めました。そんなこんなでバタバタと今の病院の退院手続き、そして緩和への入院日の連絡、民間救急車の予約などに追われ後回しになっていたサイバーナイフセンターのM先生への連絡を昨日の昼頃しました。

 M先生は2月の検診の時は元気そうだったのに5/8の時にやっとの思いで東京のセンターを訪れた時の母の衰弱ぶりを気にして下さっていたようでした。入院先の主治医の所見を話すと、もう一度あらゆる可能性を想定して画像診断をしてみるとおっしゃって下さいました。
 そして20分後電話がありました。なんと小脳のめまい吐き気を起こす部位に脳転移の影があり、それがここ数週間で大きくなっていたとしたら吐き気の原因である可能性は大きいとの事、驚きました。

 5月の検査の時点でもその腫瘍があったとしたのならば単に見落とし?と言う気もしますが画像診断もそんな簡単な事では無いのでしょう。M先生は「なるべく早くこちらに来て欲しい。ベッドは用意しておく」との事で急遽昨日M先生のいる東京の病院へ転院しました。
 民間救急を頼む時間も無く、私の車の後部座席を倒して向かいました。

 そんな急展開があり今日から3日に渡ってサイバーナイフ治療を行います。M先生曰く「今連絡をもらっていたから間に合った。多分うまく行く」と。約一ヶ月がんに関しては無治療だったのでここ数週間で凄い勢いで腫瘍が肥大していたようです。
 先月のイリノテカン9回目の投与から吐き気が始まり、その症状から非常に紛らわしく脳転移によるめまい吐き気にスイッチしたので、あのまま緩和病棟に行っていたら「末期全身症状による吐き気」という事になっていた事でしょう。

 サイバーナイフ治療がうまく行けば再度ガン治療に戻れるかも知れません。
無治療期間、肝転移などを考えると前途多難ですが、久しぶりに希望が持てる治療が開始します。
また東京の病院という事で何かあればすぐに飛んでいける距離に母がいるという安心感は今までと全然違います。

治療がうまくいくように祈るのみです。

 

2008年5月26日月曜日

入院4

 母はまだ入院しています。もう二週間が経ちました。
先週は仕事が立て込んでいて実家には行けませんでした。毎日父に電話をして様子を聞いていましたが「今日も変わりが無い。」という会話を繰り返すばかり。
 今の母の状態において変わりが無いのは吐き気が抜けていないという事ですので、それを聞く度に落胆しました。父はほんの少しの変化にも希望を見出そうとしているようで、「今日は体を起こしていたから多少気分が良かったようだ」とか「(実家にいる)犬や猫の様子を聞いてきたからちょっとは良くなったように思う」など....父は父なりに前向きでいようとしているようです。

 何より母と直接話せないのが辛いです。家にいた時はどんなに具合が悪くても携帯を枕元に置いて私の電話には出てくれました。
テレビを見る余裕も無く、本を読む元気も無い母はただベッドに横たわっているだけです。とても無力な自分を感じます。点滴治療だけなら在宅でも出来ます。私が一時的に仕事を整理して実家に生活拠点を移せば母と家で過ごす事が出来ます。介護認定の申請もした事ですし。
 しかしながら母の気持ちもあると思います。もしかしたら娘には見せたくない姿もあるのかも知れません。でも「次」が無い事ですので、私は私なりに後悔の無いように母と過ごす時間を持ちたいと思っています。その気持ちを明日母に会った時に伝えられればと思っています。

 吐き気が治まらない、なかなか尿が出ず、出たと思ったら尿が紅茶のような色をしている事を考えても原因が肝臓である可能性は高く、転移性肝癌の治療は難しい事などを考えると、今すぐに未認可の頃に手元に置いてあったタルセバを飲ませてしまおうか、と考えてしまったりします。今は経口剤の飲み込みが吐き気により難しくなっています。でももしも吐き気が治まってくれればタルセバの服用も可能です。
重篤な副作用が出て命を縮めるかも知れない、でも万が一著効した場合、肝転移も小さくなる可能性は充分あります。
 一方今の病院の主治医は三半規管の以上では無いか、という事を言っていたそうです。いくら何でも肝臓が原因であったとしても体勢を変えるごとに吐き気がくるのはおかしい、と言うのです。


 先日仕事仲間の縁で整体気功を行う先生と知り合いました。
あれ程東洋医学や代替治療に異論を唱えておきながら、万が一の可能性にかけてその先生に母の入院する病院へ来てもらう事となりました。もしかしたら母が嫌がるかも、と思ったのですが、意表を付いて素直に受け入れてくれました。
 1時間くらいかけてお腹や頭に手を当てたりしてもらいました。先生曰く、腸がねじれているような状態になっていて、堅く固まっているとの事、お腹がカチカチだったそうです。どこまで症状が改善されるか分からないけれどお腹を出来る限り柔らかくしておいた、との事でした。
 あれから3日、顕著な効果は出ていませんがしばらく様子を見たいと思います。信じる者は救われる....のでしょうか。



 

2008年5月19日月曜日

入院3

 入院して明日で一週間経ちます。状態は変わらず、1日吐き気があるようです。声も日に日に小さくなっていくように思います。
週末は実家に滞在して毎日病院へいきました。病室へ入るとただ横になって目を閉じて、眠っている訳でも無い母の姿が目に入ります。
テレビを見たり何かを読んだりする余裕も無いくらいしんどいのだと思い切なくなります。

 点滴はビーフリードなどのビタミン剤と制吐剤であるカイトリル、プリンペランも入っています。
ビタミンはともかくとして制吐剤は効いていないようです。
先日のエコーで肝臓にいくつか肥大した転移ガンが写っていたようで、技師の所見だと吐き気の原因はやはり肝臓だという事でした。
この病院へは「体力回復」の為に入院しているので詳細な検査は出来ないのと、この病院においての主治医は肺の方の主治医に治療の主導権を委ねる事を最初段階で明言しているのであまり余計な事を言わないようにしているのが分かります。
吐き気の原因が肝臓だとしたら制吐剤は効かないのでしょうか?

ただ効かない制吐剤を入れていても仕方が無いので別種類のものに変えたりステロイド剤を投与してみたり出来るのかどうかを確認しようと思っています。

 県内の緩和病棟も3つ面接予約を入れました。
最近は緩和病棟でも積極的な治療をしてくれる所があると聞きます。調べているのですがどうもうまく情報が引き出せません。どなたかご存知の方はいないでしょうか?


話は戻ります。
こんな風にしている間に大元の肺がんや転移部がどんどん増悪していくのでは無いかという恐怖があります。
でも今の体力で治療が出来る訳でも無いでしょうから本当に辛い所です。
この病院にもいつまでいられるか分かりません。小泉改革はまさに弱いものいじめに他ならず、入院医療が必要な患者でも医療費の削減目的でどんどんと自宅に帰されてしまう現実を呼びました。

今日父が介護認定の申請に行きました。
今私たち家族が出来る事は現実的に準備をしていく事、希望を捨てない事、そして何よりも母の支えになる事ですよね。
このブログを読んで下さっている多くの方々は同じ思いをされていることと思います。お互いに自分の心身をキープしながら大切な家族を支えていきましょうね。

2008年5月15日木曜日

入院2

 火曜日に入院してから3日が経ちました。1日二回の点滴をしていますが今だ吐き気の症状は抜けないようです。いったいどうしてしまったのか、不安でたまりません。何よりも本人の辛さを考えると悲しく苦しい気持ちになります。
つい一ヶ月前まで編み物教室に行ったり、一緒に買い物に行ったり出来たのに...。

 しかし悲しんでばかりもいられません。
母を支える者としてしっかり現実を受け入れて出来る事は何でもして行きたいと思っています。
 
 入院した日は本当に辛そうで、母の心身は限界だったと思います。
病院へ行く寸前まで横になっていて、立ち上がるのも精一杯、やっと立ち上がったと思ったら吐き気が来てえづいてしまいます。
どうにか車に乗り込んで病院へ行きました。車いすに乗った母の痩せた背中を見ていると様々な思いがわき上がってきます。でも悲しみに浸っている余裕もありません。

 入院にあたっての身体検査で体重を計ったら37キロしかありませんでした。どうしてこんなに弱ってしまったのか。
どうして吐き気が抜けないのか。肝機能は数値的には正常でした。画像的な診断が待たれる所ですが今は検査自体も負担になるのでしばらくはペンディングです。

 入院前夜母と話しました。私は母にもっと生きていて欲しい、辛い治療はもうイヤだと思うし、私もそれは避けたいと思っている。
でももう一回一緒に旅行に行ったり美味しいものを食べたり、そんな日々を送りたいと思っている、と伝えました。
 すると母は「死ぬ事はもう怖くは無い。だから私が死んだらやっと楽になれたのだと思ってあまり悲しまないで欲しい。」と言いました。涙が出そうになりましたがぐっとこらえました。
 生きていて欲しい、でももう母には楽になって欲しい、この究極選択的ジレンマは私の人生にいったいどんな意味があるのでしょうか。

2008年5月13日火曜日

入院

 申し込んでおいた訪問診療の看護士さんが今日実家へ面談へ来てくれました。
母は横になったままでしたが看護士さんからの質問にしっかりと答えていました。

 既往歴に始まり肺がんの治療の経緯、今一番辛い症状などについて。
今一番辛いのは間違いなく継続的な吐き気です。本当に何とかして欲しいと思います。原因究明の為に予約した検査ももはや行ける状態ではありません。

 そんな母の状態を見かねてか、その診療所を通して明日から母は市内の病院に入院する事になりました。
 主治医のいる病院は車で1時間40分ほどかかる場所ですので、取りあえず体力を復活させえる目的で実家から車で15分くらいの市内の病院の入院を決断したのは賢明だったと思っています。また迅速に入院の手配をしてくれた看護士さんと診療所の医師に感謝します。

 このまま食べられない状態に甘んじて実家にいても何も良い事はありません。入院して点滴を受けて吐き気の原因を究明して再び肺がんの治療に戻れる事が目標です。

2008年5月10日土曜日

脳検査〜肺の診察

 一昨日母がフラフラの状態で上京しました。東京駅まで車で迎えに行き、送りに来た父とバトンタッチしました。
つい2ヶ月前まで普通に歩いていた母が今は支えが無いとふらついてしまいます。

 上京の目的はサイバーナイフセンターでの脳のMRI検査です。
母も私もセンターの主治医には多大な信頼をよせています。前に会ったのは3ヶ月前、母はこんな骨と皮みたいに痩せていませんでした。
衰弱した母を見て先生は「元気無さそうだね。でも良く来たね」と言ってくれました。

 検査の結果、脳転移は小さいものだけなので処置に値しないとの事。転移巣はあるにはあるのですが、落ち着いているようです。
継続的な吐き気と倦怠感はもしかしたら脳転移の増大、もしくは癌性髄膜炎?と懸念していたのですがそうでは無かったようです。
こんな状態の中、小さな安心感をもらえた昨日の検査でした。

 そして今日、肺の主治医の診察でした。
私が主治医に手紙を書いて母に託しました。今の母の体力低下に対して何らかの対処をして欲しい事、またこの吐き気と倦怠感が続くのはどういう原因が考えられるか、という事を聞きたかったのです。

 前者に関してはプリンペランという一般的な吐き気止め、胃腸の働きを助ける薬を処方されたようです。 
後者に関しては肝転移が進んでいる可能性があるとの事。考えたく無い事ですがあり得る事です。肺原発もさることながら肝転移は画像診断の度に数も増えて、大きくなっていました。
 そう思うのなら肝機能を計ったりしてくれても良さそうなものですが、あくまでも来週のCTを撮ってからの判断とされたようです。
来週CTを撮った所ですぐに結果が分かる訳ではありません。また一週空くのです。

 この主治医の対応にどう思いますか?吐き気や体力低下に対しても、少しの手間をかけてくれれば今日点滴も出来たはずです。
血液検査で肝機能を計る事も出来たはずです。
両親はそのまま帰って来たようですが、釈然としない気持ちでいっぱいです。私が同行出来なかった事を悔やんでいます。

 今の母の状態が主治医のせいだとは思ってはいません。病は進行していくものですし、そもそも末期の状態での治療でしたから主治医も手探りだったと思います。結果の保証出来る治療なんてあり得ない事は理解しています。
 ただ体調不良をおして通院して来た患者にその程度の対応しか出来ないなんてあまりに気持ちが無さ過ぎると思います。

 父に電話をすると、母の顔色が黒いような気がすると言います。実は私もそう思っていました。
もしも肝臓転移が悪化しているのであれば当然今後の薬の投与が厳しくなります。頼みの綱のタルセバも服用出来るかどうか分かりません。
そうなった場合はどうすれば良いのか。。。なるべく苦しまないように緩和病棟への入院が一番現実的な事かも知れません。

往診をしてくれる近所の診療所に連絡を取り、事情を話して今後自宅で点滴を受けたり、いざという時にすぐに看護師さんに来てもらえるような状況を作ろうと思いました。

今日は1日仕事。
没頭出来る仕事がある事に救われている反面、寂しく不安な想いをしているであろう母とあまりに遠く離れている現状が辛くなります。
仕事が終わり車に乗り込んだら力が抜けてしまいました。一人でいると涙が流れてしまう事が良くあります。

 

 

 

 

2008年5月6日火曜日

自分チャージ

 実家と自宅の行き来が今日で一段落です。GWの渋滞の中の移動はなかなか大変でした(しかもこちらは遊びではありません)。
次は母が東京に移動になった脳外科の先生の検査を受けに上京します。その先生は母が住む県内のサイバーナイフセンターでの主治医で、二年以上母の脳転移の経過観察、処置を行って頂いています。
素晴らしい先生で、県内の新しい先生に診てもらうよりも、先生の異動先にこちらが追いかける、という手段を取りました。

 依然倦怠感、食欲不振が抜けず、めまいも続いているので心配ですが、東京駅に着くバス乗り場まで父が送り、降り口まで私が迎えに行くという段取りになっています。

 実家滞在中は母は私に「もう治療はしたく無い、楽に死にたい」と何度も言いました。もう緩和病棟に行きたいと。
母はもう治療に疲れたのだと思います。無理もありません。前回の投与でヒドイ吐き気に襲われてこんなに体力が低下してしまった事、そして普通食が食べられるようになった今でさえ倦怠感やめまいが抜けず、本人も体力低下を自覚するがゆえに後ろ向きな気持ちになるのだと思います。

 親に「楽に死にたい」と言われたのは当たり前ですが生まれて初めてです。このような瞬間が今この時期に訪れるとは夢にも思わなかったです。でも娘として、辛くても悲しくても受け止めなくてはいけないのですね。
 それなのに母にうまく言葉を返せず、スキンシップも出来ず、ただ困惑している私。本当にダメな人間です。

 人は「どれだけ生きた」かでは無く「どう生きたか」がその人の真価なのだとしたら、私の知る母の生き方からすると現状は既に母の願う生き方からは外れています。だから緩和病棟へ行きたい、治療を辞めて楽になり、出来ればちゃんとした姿でこの世を去りたいのだと思うのです。治療に苦しむ1年よりも、解き放たれた三ヶ月の方が真の延命なのかも知れません。


 でも私は思うのです。生きていて欲しいと。母にこの世にいて欲しい。
この気持ちを伝えるべきか否か、悩んでいます。それがすなわち治療を積極的にしようとしない母を責める事にもなりかねないからです。

 母の告知以来、母や私を親身に支え続けてくれている母の従姉がいます。
母は彼女に「もう娘(私)にも嫌われてお父さんにも諦められているのよ」と漏らしたそうです。大きな誤解です。
私は母が大好きです。そりゃあ受け入れきれない程のネガティブな発言に困惑したりしたけれど、嫌っているなんてことはあり得ない!私は母に生きていて欲しい。そうで無かったらこんな思いにはなりません。

 これだけ近くにいる実の娘に対しても誤解とは言えそんな風に思ってします母の病人としてに深い孤独、孤立感を感じました。そこに寄り添う事は出来ないのでしょうか。

 

 


 

2008年5月3日土曜日

その後....

 本当にどうなる事かと思いましたが、母は取りあえず持ち直しました。今は吐き気も抜けて以前よりは少量ですが普通食を食べられるようになりました。
 ただ倦怠感だけは抜けず、1日の大半を横になって過ごしています。今までの母からは考えられません。それが心配ですが、その倦怠感がどこから来るものなのか、こればかりは調べようがありません。母は癌の進行によるものだと信じているようですが...。4日以上も普通に飲食が出来ない状態だった訳ですから、元気な人間でも相当衰弱するはずです。ただでさえ基礎体力が落ちている所に来たダブルパンチから立ち直るには今しばらく時間がかかると思いますので、焦らずに様子を見ていきたいと思います。
 
 焦らずに、と自分で言っておきながら焦らずにはいられない事が一つ。
それは前回の抗がん剤投与から10日ほど無治療になっている事です。ただこの状態で抗がん剤を体内に入れる事はもっての他ですので選択肢はありません。ただいつが治療の再開時なのかを見極めるのが難しいです。

 もうすぐサイバーナイフセンターでの脳MRIがあり(ここの主治医には多大な信頼をおいています)、その後現病院でのCT検査があります。これを一区切りに今後の治療を考えたい所ですが、その翌週に、母曰く「夫婦二人きりの最後の旅行」が以前から予定されていました。両親としては何としてもこの旅行を決行したいようで、私としても、最後かどうかはともかく是非とも行って来て欲しい気持ちがあります。

 そうなるともしも近日治療を再開したならば、次期治療薬剤の候補No1のタルセバを服用して日が浅い内に旅立つ事になります。それはあらゆる意味で不安ですのでタルセバを旅行帰りまでペンディング、となるといったいどれくらい無治療期間になるのでしょうか....ざっと20日強です。先月末のマーカーが10も上がっている事を考慮しても賭け以外の何物でもありません。

 今回の痛い経験から、母はもう点滴抗がん剤を受け付けられない状態だと思うので、それを除外するとタルセバ以外に残された薬は内服薬のTS-1しかありません。肺腺ガンにおいてTS-1は単剤での奏効はあまり望めず、あくまでも白金系との併用が推奨です。今の母が白金系の薬剤に耐えられるかどうか。まず無理でしょう。正に八方塞がりです。

 気休め程度にTS-1を単剤で飲む手も無くは無いですが、むやみやたらに薬剤を体に入れることにも抵抗があります。旅行と命とどっちが大事なのかと言われそうですが、この病期の患者にはもしかしたら旅行を優先させるのが前向きなのでは無いかと思ったりもします。
 以前頂いた非公開のコメントの言葉を借りると「残された日々がハッピーであること」はとても大事な事です。

 母の状態が良く無かったのでしばらくの間、凄い勢いで実家と自宅を行き来していました。実家までは高速を使って2時間〜3時間の距離です。もういい加減慣れましたが、昨今自分自身の気力体力の低下は否めません。
 実家に行けば1日最低2食の準備と後片付け、買い物、私が帰った後の食事の作り置きを考えたり、さらには抱えてる仕事も持参していたりしますので、うまく時間を使わないといけません。気がついて見ると我が家の事が全く放置されていたりもします。
 今日も朝から動きっぱなしでした。次はあれ、次はこれ、と段取りを考えて動くのですがなかなかはかどらず、そんな時に後ろ向きで絶望的な事ばかり言う母につい苛だってしまい強い口調になってしまったり(もっての他です)、少し耳の遠い父にも一度で話が通じずイライラしたり...良くないですね。まずは自分自身のコントロールをしなくてはいけません。
 
 こんな未熟な自分ですが帰りの車の中で思ったのは「こんな風に親の面倒を見られるのも親が生きている内だけだからありがたいと思わなくてはいけない」という事。そう思ったら涙が出て来てしまいました。