2009年3月25日水曜日

初めてのお彼岸

 先日お彼岸で母のお墓へ行って来ました。新幹線で2時間以内、という距離間でもなかなか足繁くは通えません。
父と姉と三人で行ったのですが、現地集合解散、お昼もそれぞれ別に取る、という何とも素っ気ない家族関係になりました。やはり家族にとって母親は皆を包んでまとめる太陽だったのだと今更ながら思います。

 何はともあれ初のお彼岸を家族三人で迎えられたのは良かったと思っています。
母の魂がお墓に留まっているとは思っていませんが、骨を納めた場所に足を運んで花をたむけ、手を合わせる事で少しだけ母と会えた気がしました。

 桜が咲き始めています。花冷えで今日あたりは随分とひんやりしていますが、昨日はそこここで咲き始めた桜を眺める事が出来ました。
何度もこのブログでは書いていますが、母と最後に桜を見たのは昨年の4月でした。
 実家を訪れた私に「桜を見に◯◯公園に行きたいから連れて行って」と頼まれて一緒に花見に行きました。もう4割ほどは散っていましたが、うららかな春の日差しが暖かい日で、母とゆっくり公園内を散歩しました。

 「ああ、綺麗。もうこれが最後の桜でいいわ」と母は言いました。
「そんな事言わないで、もっと頑張って欲しい」と言うような事を私は言ったと思います。
「だってこれでまた別の薬にして副作用があって、それでまた耐性になって、を繰り返して生きているだけじゃない。生きていると言うのは健康で美味しいものが食べられて、先の楽しみがあって、ってそういう事。私はもう疲れた。」
 母はそんな事を言いました。

 たまらなく悲しい気持ちになり涙がこぼれそうでしたがこらえました。
母の闘病を見続けて来た私には母の気持ちが分かったのです。私が同じ立場ならやはりそう思ったかも知れない。無責任に「頑張って」とはもう言えない。

 その時涙をこらえていた私は、遠い昔母と離れるのがイヤで幼稚園に行きたく無い、と毎日泣いていた私と何ら変わらないくらい不安でした。その日の夜に私は自宅へ帰りPCを見ると母からメールが来ていました。
 「今夜は春の嵐がうるさくてあまり眠れないので昼間に見た桜を思い出していました。本当に綺麗でした。」
 そのような事が書いてありました。

 母はその3ヶ月後に亡くなりました。
あの時の桜が本当に最後の桜になってしまいました。あの時母が見ていた桜と私が見ていた桜は同じだったのでしょうか。
母が亡くなって初めての桜の季節、そんな事を考えて過ごしています。





 

2009年3月2日月曜日

3月になりました

 このブログを訪れて下さる方のご家族の状態が悪化してしまったり、また訃報が届いたりすると自分自身の体験と大きく重なり本当にやり切れない気持ちになります。痛いほど気持ちが分かり、何も出来ない事に歯痒さを覚えたりもします。

 病気は本当にいやですね。どうしてガンという重篤な病気を大切な家族が負わなくてはいけなかったのか...
 病気になる事で勉強出来る事もある、という前向きな考えを提唱する人もいますが、あんなに明るく強かった母が自らの死を目前に「こんな状態で生きているのなら早く死んでしまいたい」と繰り返していた最後の数ヶ月を思うと到底私にはそんな言葉は出せません。
病気なんか無い方が良かった、母にはもっと長く生きていて欲しかった、それが今の私の心の叫びです。
 
 母の闘病から死に至るまで、もちろん得るものがゼロだったとは言いません。常に母を想い心配してくれていた母の友人達、事情を知りいつも私の事を気にかけてくれていた私の友人たち、遠方から葬儀に足を運んでくれた人たちの存在を心からありがたいと思え、人は一人では無いのだと感じさせてくれた貴重な体験ではありました。

 
 最近は実家に来るとようやく片付いた母の部屋に寝泊まりしています。片付いたとは言っても母の持ち物はまだ殆ど処分していません。自宅での葬儀の時に物置部屋のように置かれていた雑多な家財道具を元の場所に片付けただけです。

 母のパソコンもそのまま。
そのパソコン台に自分のノートパソコンを置いて使っていますが、私が送った治療に関する書類をプリントアウトしたもの、セカンドオピニオンを聞きに行く先のメモ、腫瘍マーカーその他の結果値のプリントなどを見るとまざまざと闘病の日々がよみがえります。
 母も一生懸命だったのだな、とまた涙が出そうになるのです。

 母はモノに執着の無い人でしたからモタモタと片付けをためらっている私に「使わないものはさっさと捨ててスッキリして」と言うのだろうな、と想像しています。でも娘としては母の使っていたものはなるべくとっておき出来れば自ら使いたいもの。
 
 最近とある英文の本を読み始めました。私の英語力では辞書は手放せなく、一ページ読むのにどれだけ辞書をひいているのか、という状態です。
 実家でその本を読む時には母の英和辞書を使っているのですが、最近その辞書の裏表紙に「英検受験の為に購入 1975 9月」という書き込みを見つけました。チェックした単語にはアンダーラインがひいてあったり母の勉強の足跡は感じていましたが、1975年の購入とは知りませんでした。
 
 1975年と言えば私も姉も幼稚園生と小学生。子育てに全ての時間を費やしてもおかしく無い時期に英検の受験を視野に入れて英和辞書を購入した母。
 勉強家である事は知っていましたが、改めて母の底力を知る思いでした。

 亡くなった今も母は私に沢山の事を教えてくれます。


 ▼追記
母の持ち物の中に最初の抗がん剤の脱毛の際に作った「かつら」を見つけました。
その他にも脱毛中の就寝時にかぶる手作りのナイトキャップ(専門の方に作って頂きました)、かつら付きの帽子などがあります。
 現在闘病中のご家族の為に必要な方は以下のアドレスにメールを下さい。
naokohz@yahoo.co.jp
 
 母の頭のサイズは分かりませんが156センチの中肉中背の女性でした。ヘアスタイルはストレートのショートでした。白髪は少ない方でしたのでかつらも白髪は入っていません。