2008年12月28日日曜日

2009年を迎えるにあたって

本当に久しぶりの更新です。
12月は思っていたよりものんびりと過ごしていましたが、ここに来て溜まりにたまった仕事が押し寄せて来て、辞めれば良いのに厄落としのような気分で大掃除まで始めてしまいました。
母のいない初めての新年です。
去年のお正月は今年もまた新年を迎えられて良かった、と母と話しました。色々あるけれど細々でもいいから生きていられればいい、と母は言っていました。その二週間後くらいに肝転移が分かりました。仕事の合間に聞いた母の留守電の声は今でも忘れません。
二度目のイレッサは効いていなかった、あなたの言う通りだった。今後の治療の相談をさせて下さい、と母は言っていました。

絶望的な気分の中仕事場に戻り、何事も無かったように仲間と会話をしている自分にびっくりしました。こういう状況に慣れていった部分もありましたが、自分自身が二分化されているような、変な感覚でした。

 あれから母の病状がどんどん下り坂になっていった経緯はこのブログにも書いています。
母自身の口から「こんな状態だったら早く死んでしまいたい」と再三聞かされました。私にとって苦しかったのは、母の辛さを少しでも肩代わり出来なかった事。完全に病床についてしまう前は抗ウツ剤も飲んでいました。
そんな中まるで運命のように日本に旅行に来てくれた母のスペイン人の友人。彼女は母の病気を知りませんでした。
来日して母のやせ細った姿を見て「何かがおかしい」と思ったようです。母の口から病気のことを聞き、ショックのあまり涙ぐみながら「人生はなんて不公平なの!」と言いました。
そう、人生は本当に不公平だと思います。何も悪い事していない、むしろ家族の為に一生懸命生きて来た母に何故人並みののんびりとした老後を過ごす事が許されなかったのか。本当に悔しいです。

彼女と母と一緒に旅行にも行きました。体力が落ちていた母は散歩も長い時間は出来ず、車中も宿でも寝てばかりでした。
「これが最後の旅行ね」と何度も言っていましたが楽しそうにしていました。三人で見た富士山は今でも瞼に焼き付いています。

俵萌子さんが先月亡くなりました。
母は俵先生が主催していた「1、2、3で温泉に入る会」の会員でした。この会は俵先生が乳がんになってから自ら発起した会で、乳がんの患者さんを中心に、切除手術をしていても皆で温泉に入れば怖く無い!をモットーに様々な旅行や会合を行っていて、母も二度旅行に参加しています。

 母が亡くなった際に会報用に母の思い出を寄稿して欲しい、とお願いを頂き、拙い文章を運営部に送りました。
ところが時期同じくして俵先生の乳がんの転移が分かり、会報がペンディングになりました、とのお知らせを頂きました。
先生の回復を願っていたのですが11月末に亡くなられたとの事、本当に残念でなりません。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。

僭越ながら寄稿した文をここに載せさせて頂きます。

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 母が末期の肺癌であるとの告知を受けたのは2006年3月の事でした。両肺に転移があり手術は不可能である事、抗がん剤治療の効果もあまり期待は出来ない、さらには余命は長くて一年だとも告げられました。それまで病気一つした事の無い母本人はもちろんの事、父も姉も私もその事実を受け入れられず、一気に闇の中に突き落とされたようでした。
 医師の余命宣告を大きく裏切り、あれから二年半、母はがんと戦い続けました。
色々な治療を試み、中には劇的に効く抗がん剤もありました。まるで病気の事を忘れたかのように元気に日常生活を送り、時には旅行で遠出をしたり、告知当初には思いも付かなかった安息の日々もありました。
 その薬が耐性となり他の治療に移行する中、病状はゆっくりと下り坂を辿り、2008年7月12日朝5時12分、家族3人の見守る病室で母は帰らぬ人となりました。67年の人生でした。
 
 明るく快活で表裏の無い性格の母には沢山の友達がいました。病気が分かってからもその友人達が常に母を励まし支え、最期の病床にも来客が絶えない程でした。
母の闘病に寄り添った二年半の間、思えば私にもどのような時にも支えてくれた家族や友人達がいました。人は一人では無いのだと、母は最後まで身を持って教えてくれたのでしょう。

 楽しみにしていた1.2.3の会の湯沢への旅行には行けずに旅立った母、これからはどこに行くにも一緒なのだと信じています。
 あなたの娘に生まれて良かった。今は悲しみの中にいるけれど、自分なりに精一杯、母にもらった命を大切に燃やし続けます。