2008年7月28日月曜日

コメントを頂いていて....

 公開、非公開のコメントを頂いていました。そのレスが遅くなりました事をこの場を借りてお詫び致します。
同じような立場で気持ちを分かって下さる方がいる事が今の私には救いです。
また、今現在も闘病をされている方々やそのご家族の皆さん、どうか体力を温存する事を第一に治療を選択していって下さいね。作用と副作用のバランスは医師では無く、近くで見守る家族が見て計る事だと私は思っています。
私は母が最後にした抗がん剤を、何故ペンディングにして、翌週からタルセバに移行しなかったのか、本当に後悔しています。
主治医はタルセバの副作用の危険性を示唆しながらも、上昇し続ける腫瘍マーカーの値を見て今までと同じ薬剤での治療を勧めました。
その判断が間違っていたと言うつもりも無いのですが、そこでその主治医の判断を阻止して別の方向性を示せたのは私しかいなかったと思うのです。タルセバが使える状態でいながら何でそれを言い出せなかったのか、決断出来なかったのか。
反面そこでタルセバに踏み切っていても効果が上がる確証はありませんでした。後戻りの利かない選択肢は常に賭けでした。

 見ないように、見ないようにしようと思いながら、母からもらったメールを探して読んでしまいました。
今年4月8日のメール。4月末に一緒に行こうと思っていた湯沢旅行の待ち合わせ場所を決める内容でした。結果その旅行には吐き気が治まらずに行けなかったのですが。
そのメールをもらった前日に母が桜を見たいとの事で、実家近くのある公園に二人で行ったのです。
母は珍しく「絶対にそこに行きたい」というような言い方をしました。

 桜は4割方散っていました。
正直私が東京で見ていた満開の桜からすると迫力に欠けていましたが母はご満悦で「綺麗だわ〜」と連発して、「これが最後の桜でも、もういいわ。」と繰り返していました。
その言葉が辛くて、涙を堪えるので必死でした。


 ざっと公園を一周して、母の色々な思いを聞きました。思えばそれが最後に母と過ごしたゆったりとした時でした。
メールには「今日は春の嵐が吹き荒れてなかなか眠れません。一緒に見た桜の事を思い出しています。本当に綺麗でした」とありました。
母の目に映った桜は、きっと私とは違うものだったのでしょう。
どうしようも無い悲しさに襲われています。

 

2008年7月24日木曜日

母が亡くなって

 もうすぐ二週間が経ちます。私にとってはとても長い時間でした。
亡くなる前の数日、亡くなってからの怒濤のような忙しい日々、しっかり母に思いを寄せて悲しむ時間なんてありませんでした。

 今もまだ実感はありません。ただとても気持ちが不安定になっている事を感じます。
すっかり日常に戻っていますので日々色々な事があります。あ、これを母に伝えよう、と思う度に「もういないんだ...」と思います。でもそこで泣いたり出来る程の暖かな感情の動きも無いのです。ただ愕然とするだけです。

 今日は仕事帰りに、母が5月に脳転移の処置で東京で入院していた病院の近くを通りました。胸が締め付けられるような気持ちになりました。あの頃は母はこの世にいて、毎日会えて、会話もしていたのに。あれからたった二ヶ月しか経っていないのに。
でも本当の悲しさはこれから来るのだと思います。

母の死に関して一つだけ良い事は、もう母は治療はガンの進行に苦しまなくて良いのだという事、そして私もその姿を見なくて良いのだと言う事。私たち親子の戦いはやっと終りました。

 なんだかぼやきのような記事になってしまいました。いずれにしても母が亡くなった後にこの形でのブログを続けるのは本意ではありません。近い内に別の形に置き換えるか、閉じるか、考えようと思います。せっかく「ガン友MAP」を通して訪れて下さった方をがっかりさせてしまうのは本末転倒です。

 




 

2008年7月17日木曜日

終りました

 昨日母の通夜、葬儀を終えました。
亡くなったその日から連絡関係、葬儀の準備、自宅通夜でしたので家の準備などなど...怒濤のような数日間でした。悲しんだり泣いたりしている時間も余裕もありませんでした。ある意味ありがたかったです。

 母はお骨になって小さな箱に納まりましたが、今でも母がいなくなった事が信じられません。玄関が開く音がすると母の「ただいま〜!」と言う声が聞こえてくるような気がします。車の助手席に座っているような、食卓に座っているような、そんな気もします。全く母の死を受け入れられていない自分自身を自覚しています。
 本当に死んでしまったのだと自覚する時に深い悲しみがやってくるのでしょうね。

 私が母の緩和ケア病棟病室に宿泊していた最後の二週間は正にプレゼントのような日々でした。
まだ食欲のあった母に食べたいものを聞いて一日3食作りました。日に日に体調が下り坂になっていくのは分かっていましたが、どうかこの日々が長く続くよう、祈るように毎日生きていました。
 
 緩和ケア病棟に移ってからは母は完全に寝たきりになっていました。それでも「自分で動きたいからリハビリがやりたい」と言い、毎日リハビリを受け、病院近くの温泉旅館に家族で行くのを目標にしていました。
 次第に痰が自分で出せ無くなり、何度か呼吸困難になり、呼吸を楽にする為にモルヒネの投与が始まりました。
病棟医師からは全身状態と症状からあと数週間だと言われましたが、実際はもっと早くに状態は悪くなりました。

 母のぜぇぜぇという苦しそうな寝息で眠れない日々でしたが、医師曰く、こちらが思うほど本人は苦しさを感じていないはずだといく事でした。その言葉を信じて、決定的に痰が喉につかえないようにだけ注意して見守っていました。

 この時点で嚥下が困難になっていました。意識レベルもどんどんと下がっていったようでした。
母と最後に交わした会話は何だろう、と今になって考えています。

 最後の会話をしたのは、私が夜、電話の用を済ます為に部屋を30分ほど外し、戻って来た時だったと思います。
滅多にそういう事を言わない母が「どこに行っていたの?不安になった。」と手を出して来たのです。その手を握り謝って、私は母に眠れないのか、と訊ねました。眠れないから睡眠薬をもらって欲しい、と頼まれ薬を飲ませました。
 それでも眠れないから何か話をして、と母に頼まれ、珍しい事を言うなぁ、と思いながら、私がまだ幼い頃、父のいびきがうるさくて眠れず、母と私でリビングに避難して、深夜インスタントラーメンを半分ずつ食べた話をしました。母は「そんな事あったかしらね。覚えていない」と言いました。
 その翌日から容態が悪化したので、多分それが最後の会話だったように思います。

 何だか支離滅裂な記事になってしまいました。
後日また書きます。


 

 

 

 

2008年7月12日土曜日

長らくのご無沙汰でした。

 母は今日7月12日朝五時十二分、安らかに旅立ちました。
最後の二週間、私は仕事を整理して母の緩和ケア病棟病室にずっと宿泊していました。とても貴重な時間でした。

 最後の一呼吸を母の手を握りながら見届けました。最期を看取れて幸せです。

 詳しくは落ち着いてから又アップしたいと思います。
このブログを通じて励まして下さった皆様、本当にありがとうございました。

 また書きます。