2009年12月2日水曜日

12月になりました。

 あっと言う間に前回の更新から三ヶ月も経ってしまいました。最近頂いたkomaさんからのコメントに心を動かされて再び記事をアップする気持ちになりました。

 11月は仕事に追われて毎日目先の事をこなす事を考えてばかりでした。この1年、時間に追われ、余裕の無い割には身入りの少ない日々を過ごしていたように感じています。(つまり労働に対する収益のバランスが悪いと言う事です)
 私は長い事フリーランスで仕事をしているのですが、この不景気の中、きっと会社勤めの方々も同じような思いをされているのかも知れませんね。

 
 母が亡くなってから父が一人暮らす実家には月に一度2泊しています。その際母の部屋に寝泊まりをしているのですが、先日ふとした事から肺癌の告知を受けた直後の母の日記のようなノートを見つけてしまいました。
 告知直後の日記には「どうして私がこのような事になったのか分からない。誰か助けて欲しい。お母さん、助けて。」とありました。お母さん、とは母の亡くなった実母の事です。
 「健康な人がまぶしく見える。」「気持ちに余裕が無く孫たちに辛くあたってしまった。」「お父さん(父の事)と揉めてしまった。病気になってから喧嘩が絶えない。仲良くしたいのに。お父さん、ごめんね。」「次女(私の事)が来てくれた。彼女が私の支えだ。」

 そんな事などなど。。。母にしてみたら誰にも吐けなかった気持ちが書いてありました。
脳転移が分かり最初のガンマナイフを受ける前に私が送った荷物に同封した走り書きのような手紙もノートに貼ってありました。

 その後母はイレッサが著効して1年くらいは安定した時期を過ごすのですが、ガン告知直後の母の悲しみ、孤独感を直に感じて涙が止まりませんでした。もう3年も前の事ですが、この頃の母は私の中にも強く、鮮明に残っています。
 甘えた考え方ですが、「守ってくれる」存在であった母がとても弱くはかない存在に思え、私はただ母を助けたい思いで必死でした。

 
母親を失うと言う事はいくつになっても子供にとってとても大きな事なのだと感じています。母親がこの世に生きているだけで、何かあってもどこかで自分を守ってくれている傘のような存在を感じているものではないでしょうか。
いつかは誰もが味わう事だとは知りながら、私はその大きな傘を失うことで今まで感じた事の無いくらいの深い孤独を知りました。
と同時に、今思えば、ようやく私が精神的に母から離れ人間として自立へ向かった時期でもあったのかも知れません。

母が亡くなってから計らずも私の周りが大きく動きました。仕事面、人間関係、家族関係、私が他人や自分自身を見つめる目、今現在も明らかに変化を繰り返しています。正直こんな時にどうしてまた、と思ってしまうくらい辛い出来事もいくつかありました。
でも生きて行くしか無い、前に進むしか無いのだと思い、日々暮らしています。

誰にでもあると思うのですが、何もかも嫌になってしまう時。
そんな時には少し足を止めて休み、自分を甘やかし、元気になった頃には笑顔でまた歩き出す、そんな人間の再生の強さを母は教えてくれようとしているのかも知れません。

今はただ母からもらった命を精一杯燃やし続ける事しか出来ません。



 
 
 
 

 
 

2009年8月22日土曜日

8月

 半ばを過ぎました。
8/15には実家へ行き、母のお盆を済ませました。
父とはあまり突っ込んだ会話をしませんが、灯籠を買い、いつも以上に花をお供えしていて父なりに母を迎える準備をしていたようです。

 今日テレビで偶然、ガンの最新治療をテーマにした番組を見ました。
アメリカのMDアンダーソンがんセンターが特集されていて、母の闘病中に掲示板でお世話になった上野医師もインタビューに登場しました。


 肺癌を克服したフィギュアスケートの井上怜奈さんが同センター内で医師や患者さんたちにインタビューを行っていました。
MDアンダーソンセンターではあらゆる最先端の医療機器を取り入れ、身体の各箇所に転移がある末期の患者さんにも前向きな治療を行い、延命に力を尽くしている様子が放映されていました。末期でも諦めず、前向きに,現実的な治療を行う医師たちの姿に多くの患者さんが勇気を得た事だと思います。


 母は2006年1月、肺癌が見つかった時には既に4期、末期でした。当初一年未満と言われていた余命を大きく裏切る二年半の闘病が出来た事はもしかしたら奇跡に近い事なのかも知れません。
 病気が分かる前に、母はもっと長く生きる事が当然と思っていた私にはあまりにも短い二年半でしたが、末期の肺癌を患った患者としては延命治療が成功したと言えるかも知れません。
 
 
 母は亡くなる数ヶ月前から鬱状態がひどくなり、その頃を思い出すと今でも涙が出ます。母の口から「こんなだったら早く死んでしまいたい」と何度も聞かされて、その度に心が張り裂けそうでした。
 MDアンダーソンセンターでは精神的ケアを前提とした治療も行われているようです。日本ではどうなのでしょうか。まだまだがん患者さんのメンタルケアは形式的なものなのでは無いか、と懸念します。
 

 
 井上さんは母が在命中に心の支えにしていた人の一人です。久しぶりに彼女の元気な姿を見てとても嬉しく思いました。そんな思いからあまり意味の無い記事を書きました。
 
 明日から月末にかけて怒濤のように仕事に追われそうです。昨年の今頃は母が亡くなって一ヶ月と少したち、ほんのちょっとだけ落ち着きを取り戻した頃でした。一年が経ち、仕事に追われている自分がいる事、時の流れはありがたいような、切ないような複雑な気分です。
 

2009年8月5日水曜日

大変ごぶさたしております。

 何と4ヶ月ぶりの更新!こんなランダムなブログを訪ねて下さりコメントやメッセージを下さる方々にはありがたくて涙が出そうです。

 7月12日に母の一周忌を迎えました。
お墓のある名古屋へ父と姉と向かい、お墓へ行く前に駅構内のデパートのレストランで父のバースデーパーティーをしました。
父の誕生日は母の命日の翌日。父が一人残されても寂しい誕生日にならないように、と言う母の計らいを感じざるを得ません。

 私にとって母が亡くなって一年と言う年月はとてつも無く長かったような、アッという間だったような、今までに味わった事の無い時間の流れを感じる日々でした。
 ただ言えるのは、一年が経ち、ようやく悲しみが現実のものとなり、今まで以上に母に会いたい、話がしたい、と思ってしまう事です。

 特に母が亡くなったこの季節の到来で、より鮮明に亡くなる寸前の事を思い出してしまいます。
緩和ケア病棟に入ってからの2週間、同じ病室に寝泊まり出来た事は今となって思えば宝物のように貴重な時間でしたが、同時に胸が張り裂けるくらい切なく悲しい時間でもありました。
 
 毎日母の仏壇には手を合わせ、この無精者の私が生花を絶やした事はありません。それ自体自分でも驚きですが、こんな風にして人間って故人と繋がっていくものなのだと、大切な人を何人も失っているであろう目上の人たちの信心深さを見て納得したりもしました。
 
 最近は仕事で私生活で、何か困難、難儀な事が起きた時に心の中で母に話しかけます。「お母さん、どうしたらいいかな?」と言うように。一人でいる時などは実際声にも出しています。
 もちろん回答は聞こえませんが、「きっと母ならこう言っただろうな」と言うところで自分なりの落ち着き所を見つけたりしています。

 あまり詳しく話す事に意味が無いので避けますが、とても身近で信頼していた人物に長い間ウソを付かれていた事を母が亡くなった数ヶ月後に知りました。あまりにショックでしばらくは人間不信になりそうでした。まだ完全には乗り越えてはいませんが、今なんとか自分自身の生き方を見つめる事で立ち直りつつあります。
 
 考え過ぎかも知れませんが、もしかしたら母が私にその事実を知らせてくれていたように今では感じています。人間とは弱いもの。許す事は困難だけれどそう言う器を持ちなさい、どんな事があっても胸を張って生きなさい、と言うメッセージだったのかも知れない、とすら感じています。

 ※智海さん
コメントをありがとうございました。お母様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
遅ればせながらコメントのレスをさせて頂きました。

 
 
 

2009年3月25日水曜日

初めてのお彼岸

 先日お彼岸で母のお墓へ行って来ました。新幹線で2時間以内、という距離間でもなかなか足繁くは通えません。
父と姉と三人で行ったのですが、現地集合解散、お昼もそれぞれ別に取る、という何とも素っ気ない家族関係になりました。やはり家族にとって母親は皆を包んでまとめる太陽だったのだと今更ながら思います。

 何はともあれ初のお彼岸を家族三人で迎えられたのは良かったと思っています。
母の魂がお墓に留まっているとは思っていませんが、骨を納めた場所に足を運んで花をたむけ、手を合わせる事で少しだけ母と会えた気がしました。

 桜が咲き始めています。花冷えで今日あたりは随分とひんやりしていますが、昨日はそこここで咲き始めた桜を眺める事が出来ました。
何度もこのブログでは書いていますが、母と最後に桜を見たのは昨年の4月でした。
 実家を訪れた私に「桜を見に◯◯公園に行きたいから連れて行って」と頼まれて一緒に花見に行きました。もう4割ほどは散っていましたが、うららかな春の日差しが暖かい日で、母とゆっくり公園内を散歩しました。

 「ああ、綺麗。もうこれが最後の桜でいいわ」と母は言いました。
「そんな事言わないで、もっと頑張って欲しい」と言うような事を私は言ったと思います。
「だってこれでまた別の薬にして副作用があって、それでまた耐性になって、を繰り返して生きているだけじゃない。生きていると言うのは健康で美味しいものが食べられて、先の楽しみがあって、ってそういう事。私はもう疲れた。」
 母はそんな事を言いました。

 たまらなく悲しい気持ちになり涙がこぼれそうでしたがこらえました。
母の闘病を見続けて来た私には母の気持ちが分かったのです。私が同じ立場ならやはりそう思ったかも知れない。無責任に「頑張って」とはもう言えない。

 その時涙をこらえていた私は、遠い昔母と離れるのがイヤで幼稚園に行きたく無い、と毎日泣いていた私と何ら変わらないくらい不安でした。その日の夜に私は自宅へ帰りPCを見ると母からメールが来ていました。
 「今夜は春の嵐がうるさくてあまり眠れないので昼間に見た桜を思い出していました。本当に綺麗でした。」
 そのような事が書いてありました。

 母はその3ヶ月後に亡くなりました。
あの時の桜が本当に最後の桜になってしまいました。あの時母が見ていた桜と私が見ていた桜は同じだったのでしょうか。
母が亡くなって初めての桜の季節、そんな事を考えて過ごしています。





 

2009年3月2日月曜日

3月になりました

 このブログを訪れて下さる方のご家族の状態が悪化してしまったり、また訃報が届いたりすると自分自身の体験と大きく重なり本当にやり切れない気持ちになります。痛いほど気持ちが分かり、何も出来ない事に歯痒さを覚えたりもします。

 病気は本当にいやですね。どうしてガンという重篤な病気を大切な家族が負わなくてはいけなかったのか...
 病気になる事で勉強出来る事もある、という前向きな考えを提唱する人もいますが、あんなに明るく強かった母が自らの死を目前に「こんな状態で生きているのなら早く死んでしまいたい」と繰り返していた最後の数ヶ月を思うと到底私にはそんな言葉は出せません。
病気なんか無い方が良かった、母にはもっと長く生きていて欲しかった、それが今の私の心の叫びです。
 
 母の闘病から死に至るまで、もちろん得るものがゼロだったとは言いません。常に母を想い心配してくれていた母の友人達、事情を知りいつも私の事を気にかけてくれていた私の友人たち、遠方から葬儀に足を運んでくれた人たちの存在を心からありがたいと思え、人は一人では無いのだと感じさせてくれた貴重な体験ではありました。

 
 最近は実家に来るとようやく片付いた母の部屋に寝泊まりしています。片付いたとは言っても母の持ち物はまだ殆ど処分していません。自宅での葬儀の時に物置部屋のように置かれていた雑多な家財道具を元の場所に片付けただけです。

 母のパソコンもそのまま。
そのパソコン台に自分のノートパソコンを置いて使っていますが、私が送った治療に関する書類をプリントアウトしたもの、セカンドオピニオンを聞きに行く先のメモ、腫瘍マーカーその他の結果値のプリントなどを見るとまざまざと闘病の日々がよみがえります。
 母も一生懸命だったのだな、とまた涙が出そうになるのです。

 母はモノに執着の無い人でしたからモタモタと片付けをためらっている私に「使わないものはさっさと捨ててスッキリして」と言うのだろうな、と想像しています。でも娘としては母の使っていたものはなるべくとっておき出来れば自ら使いたいもの。
 
 最近とある英文の本を読み始めました。私の英語力では辞書は手放せなく、一ページ読むのにどれだけ辞書をひいているのか、という状態です。
 実家でその本を読む時には母の英和辞書を使っているのですが、最近その辞書の裏表紙に「英検受験の為に購入 1975 9月」という書き込みを見つけました。チェックした単語にはアンダーラインがひいてあったり母の勉強の足跡は感じていましたが、1975年の購入とは知りませんでした。
 
 1975年と言えば私も姉も幼稚園生と小学生。子育てに全ての時間を費やしてもおかしく無い時期に英検の受験を視野に入れて英和辞書を購入した母。
 勉強家である事は知っていましたが、改めて母の底力を知る思いでした。

 亡くなった今も母は私に沢山の事を教えてくれます。


 ▼追記
母の持ち物の中に最初の抗がん剤の脱毛の際に作った「かつら」を見つけました。
その他にも脱毛中の就寝時にかぶる手作りのナイトキャップ(専門の方に作って頂きました)、かつら付きの帽子などがあります。
 現在闘病中のご家族の為に必要な方は以下のアドレスにメールを下さい。
naokohz@yahoo.co.jp
 
 母の頭のサイズは分かりませんが156センチの中肉中背の女性でした。ヘアスタイルはストレートのショートでした。白髪は少ない方でしたのでかつらも白髪は入っていません。

 
 
 

2009年2月22日日曜日

今になって感じる事

 毎日慌ただしく、気付いてみればもう2月も末です。都内も花粉の襲撃を受ける季節、毎年の事ですがくしゃみと目のかゆみの中、もうそこまで来ている春を感じるのです。去年は本当に花粉症がひどく、仕事にならないくらいの不調でしたが今年は早めに耳鼻科で薬をもらいぼーっとはしますが何とかしのげています。

 こんなにまばらな更新の拙ブログにもまだ訪ねて来て下さる方がいて、コメントまで残して下さっている事、本当にありがたく感じています。
本来なら母が亡くなった時点で闘病記としてのこのブログを閉じるのが本筋だとは思うのですが、どこにもやり場の無い気持ちを放出できる唯一の場所という事で甘えさせて頂いています。 
 なぜならここを訪ねて下さる方々は少なからず肺癌という病気の近くにいて、同じ痛みを味わっているのでは無いかと思うからです。

 去年の今頃は母の肝転移が少しずつ広がりを見せ、数ある薬の中からイリノテカンを選択して月3回週一で単剤投与していた時期でした。
 月一の保険範囲内の腫瘍マーカー検査だけでは不安で、自費でも計っていたのでCEAの動きは頻繁に観察していました。投与中も少しずつ上がってはいましたが(記憶が曖昧ですが)脳転移の悪化から抗がん剤投与をストップしていた時期の急上昇ぶりを見るとやっぱりイリノテカンは現状維持的に効いていたのだな、と思います。

 その間、休薬の週には旅行へ行ったりもまだ出来ていました。でも食欲の低下から母の痩せ方は普通では無く、顕著に衰弱していった時期でもありました。

 何度も書いていますが、結局母は脳転移箇所の治療を行っている間の無治療期間の悪化が命取りになりました。緩和ケア病棟に移るにあたって、主治医との面接で「少しでも体調が良くなって来たらタルセバの投与を試してもらえないか」と父と私で交渉しました。緩和ケア病棟にまで来て、ましてや肺内出血も2度も起こしている本当の末期の母の容態を考えると非常識な事を言っているのは百も承知でしたが、まだ奇跡を信じていました。当然それは叶うはずも無く、主治医からは緩和ケア病棟の在り方から根本的な説明を受けることになりました。

 脳転移の箇所が吐き気をもよおす場所だった事もあって、母は随分吐き気に悩まされました。抗がん剤治療による吐き気を一番恐れていた母が、そうでは無い理由で最後の数ヶ月は苦しんでいました。

 母はサイバーナイフによる転移箇所の処置が終わり、吐き気も治まり始めていた頃に緩和ケア病棟に移りました。吐き気が治まったら食べたかったものが沢山あったようで毎日母のリクエストに応えて作り一緒に食べた食事は今では尊い思い出です。

 
 母が亡くなってから癌の治療の勉強からすっかり離れてしまったのですが、今日は久しぶりに「ガン治療最前線」というテレビ番組を見ました。
 ラジオ波や陽子線、サイバーナイフやノバリス、トモセラピーなどの最新鋭の放射線治療の存在がクローズアップされていました。
 末期と言われた肝臓ガンや大腸がんがそれによって縮小した、消滅した、など、今後のガン治療に関して大いに希望の持てる内容でした。

 母の闘病中は私も上記の治療全てに関して調べました。こと肺癌に関しては放射線は有効であるけれど病期が早期である事、すなわち転移が無い、というのが再前提でした。病巣が原発に留まっている内に原発自体を叩く事によってその後の転移も抑えていくという考え方なのですね。転移がある時点で目に見えない細胞レベルでどこにがん細胞が飛んでいるか分からない、だから放射線のような局部治療はあまり意味が無く、やはり抗がん剤治療という全身治療がより有効である、という事でした。
 もちろん番組では前向きな内容しか取り上げないのでそんな話にはなりません。でも本当に報道として真実を伝えるのであればそこまで掘り下げて欲しい、と正直感じました。
 
 転移のある肺癌で唯一放射線治療が強い味方になるのは脳転移を叩く「ガンマナイフ」「サイバーナイフ」だと思います。
 ガンマナイフはフレームを装着するので頭にビス用の穴を開けなくてはいけません。小さな傷ではありますが麻酔が切れると相当な痛みを感じるものと聞きました。また照射可能な転移の大きさに制限があり、大きな転移だと対応出来ないらしいです。その点サイバーナイフはフレーム装着が無く、顔に取り付けるマスクを作るだけです。ガンマに比べて大きな脳転移にも照射可能なので脳転移にはサイバーナイフの方が効率が良い治療が出来るのでは無いかと思います。
 関東近郊だと横浜のサイバーナイフセンター、あまり知られていないと思いますが、東京広尾の日赤病院にもサイバーナイフセンターはあります。母はそこの主治医にかかっていました。

 サイバーの主治医とはかなり密にコンタクトを取っていました。主治医の話だと、脳転移は点在して起こるのが普通で、逆に悪さをしないレベルの微小な転移は経過観察で良いそうです。放射線をあてる回数は少ないほど安全だと言う事。でもその主治医の考えが裏目に出て、母は小脳に出来た小さい転移から来る吐き気に数ヶ月も悩まされました。もっと早く処置をしてもらえればタルセバまで持ち込めてまだ母はこの世にいたのかも知れません。

でもその主治医とは充分なコンタクトを取っていたので恨む気持ちはありません。
それも含めて母の寿命だったのだと、運命だったのだと、今は思っています。

 医療は日進月歩だと言われていますが本当にそうあって欲しいですね。
同時に理不尽に認可されない薬剤が減っていく事も望みます。