2008年7月17日木曜日

終りました

 昨日母の通夜、葬儀を終えました。
亡くなったその日から連絡関係、葬儀の準備、自宅通夜でしたので家の準備などなど...怒濤のような数日間でした。悲しんだり泣いたりしている時間も余裕もありませんでした。ある意味ありがたかったです。

 母はお骨になって小さな箱に納まりましたが、今でも母がいなくなった事が信じられません。玄関が開く音がすると母の「ただいま〜!」と言う声が聞こえてくるような気がします。車の助手席に座っているような、食卓に座っているような、そんな気もします。全く母の死を受け入れられていない自分自身を自覚しています。
 本当に死んでしまったのだと自覚する時に深い悲しみがやってくるのでしょうね。

 私が母の緩和ケア病棟病室に宿泊していた最後の二週間は正にプレゼントのような日々でした。
まだ食欲のあった母に食べたいものを聞いて一日3食作りました。日に日に体調が下り坂になっていくのは分かっていましたが、どうかこの日々が長く続くよう、祈るように毎日生きていました。
 
 緩和ケア病棟に移ってからは母は完全に寝たきりになっていました。それでも「自分で動きたいからリハビリがやりたい」と言い、毎日リハビリを受け、病院近くの温泉旅館に家族で行くのを目標にしていました。
 次第に痰が自分で出せ無くなり、何度か呼吸困難になり、呼吸を楽にする為にモルヒネの投与が始まりました。
病棟医師からは全身状態と症状からあと数週間だと言われましたが、実際はもっと早くに状態は悪くなりました。

 母のぜぇぜぇという苦しそうな寝息で眠れない日々でしたが、医師曰く、こちらが思うほど本人は苦しさを感じていないはずだといく事でした。その言葉を信じて、決定的に痰が喉につかえないようにだけ注意して見守っていました。

 この時点で嚥下が困難になっていました。意識レベルもどんどんと下がっていったようでした。
母と最後に交わした会話は何だろう、と今になって考えています。

 最後の会話をしたのは、私が夜、電話の用を済ます為に部屋を30分ほど外し、戻って来た時だったと思います。
滅多にそういう事を言わない母が「どこに行っていたの?不安になった。」と手を出して来たのです。その手を握り謝って、私は母に眠れないのか、と訊ねました。眠れないから睡眠薬をもらって欲しい、と頼まれ薬を飲ませました。
 それでも眠れないから何か話をして、と母に頼まれ、珍しい事を言うなぁ、と思いながら、私がまだ幼い頃、父のいびきがうるさくて眠れず、母と私でリビングに避難して、深夜インスタントラーメンを半分ずつ食べた話をしました。母は「そんな事あったかしらね。覚えていない」と言いました。
 その翌日から容態が悪化したので、多分それが最後の会話だったように思います。

 何だか支離滅裂な記事になってしまいました。
後日また書きます。


 

 

 

 

2 件のコメント:

ちびちび さんのコメント...

ぽんさん

ご無沙汰しています。
そして長い間の闘病生活、通夜、葬儀の手続きなど本当にお疲れ様でした。
最期にお母様と一緒に過ごすことができて良かったですね。そんな時間がぽんさんのこれからの生活で救いになる時がきっとあると思います。
私も母が亡くなって1か月以上たちますが、まだまだ実感がありません。
これから、深い悲しみがやってくるかと思うととても怖いですが、母の事を忘れないためにがんばって受け入れようと覚悟しています。
ぽんさん、ひと段落ついたら、しばらくは心と体を休めて下さいね。
そしてまた、新しい生活をスタートさせましょう。私もがんばります!!

ぽん さんのコメント...

>ちびちびさん
レスが遅くなって本当にごめんなさい。
同じような立場からエールを頂き、本当に嬉しいです。
ちびちびさんがおっしゃる通り、最期の数日を母と一緒に過ごせたのは一生の宝物のような期間でした。
亡くなった実感が伴うにはまだまだ時間がかかるのかも知れません。でもきっとお母様も母も、私たちを見守ってくれる存在になっているはず。そう信じて私も頑張ります。
残されたものが元気に生きていく事が一番の供養なのだと思っています。