明日は納骨です。早いものでもう四十九日です。お墓は遠方ですので朝早く新幹線で行くのですが、嵐のようなこの天気...。
お寺さんに確認したら災害になる危険の無い程度の大雨ならば納骨は予定通り済ましましょう、との事。
でも新幹線が停まったら万事休す、です。
何とか予報を裏切る天候になって欲しい、と強く願っています。
先日実家の母の部屋を少しだけ整理しました。
母は最後入院する寸前まで編み物をしていました。色々と多趣味だった母ですが、病気が分かってからは殆どを諦め、編み物が最後まで続けられた唯一の趣味でした。
母は生前私に「私が編んでいるものは全部形見だと思って大事にしてね」と何度も言いました。
それが気になっていたので、手編みのものは全部圧縮パックに入れて、あまり圧縮しないように気を付けながら防虫剤と一緒に密閉しました。セーターやベストや帽子、数ヶ月前まで母が私の目の前で編み棒を持って編んでいたものばかり。触っているだけで涙が出ます。
姉や姪、母のごく親しい友人達で分けようと思っています。
洋服やバッグ、その他諸々、、、あの旅行の時に持っていた鞄、着ていた洋服、などと気付いてしまうと思い出にふけってしまい、ついつい手が止まってしまいます。
まだまだ片付けられる時期ではありません。
私自身の生活はすっかり日常に戻りました。
日々起きる色々な事を母に話したくなります。とても会いたいです。
母は亡くなる数ヶ月前に病院へ行く車中で「もしも今はやっているスピリチュアルの話が本当だとしたら、私が死んだら絶対にあなたの近くで守っていてあげるからね」と冗談めかして言われた事があります。
今の私にはアナザーワールドの事に思いを寄せる余裕もありませんが、母のこの言葉を信じて、母はいつも近くにいるのだと思う事で少し救われます。
2008年8月13日水曜日
最近
母と最後に過ごした病室の事を良く思い出します。
千葉県内の緩和ケア病棟の一室で、窓の外は病院の広大な駐車場、その先には畑が広がる、見晴らしの良い部屋でした。
緩和ケア病棟に移ってから母はあまり話の出来ない状態になっていました。
それでも脳転移の処置の効果が現れ、吐き気はすっかり抜けて毎日「◯◯が食べたい」と食事のリクエストがありました。
その◯◯を作るために車で5分くらいのジャスコに行き食材を揃え、病室の電気コンロの限界にチャレンジ!という感じで毎日色々と作っていました。
母は貝のお味噌汁が大好きで、病室でも毎日必ず作っていました。
今でもしじみやあさりのお味噌汁を作るとお仏壇にお供えします。
母が痰がつまり二度目に呼吸困難になった時に病室の担当看護士さんに呼ばれました。
自分の経験によるとそのような状態になってからの予後はあまり良く無い、なるべく一緒にいられる体勢は作れますか?との事、その言葉で私は仕事のキャンセルをして、後先考えずに病室に泊まり込みの生活を選択しました。
その看護士さんは緩和ケア病棟専門の看護士さんで、私の話も良く聞いて下さいました。
また母の入浴の際には看護士さんが着るような防水の前掛けを私にも貸して下さり、一緒に体を洗ったり、マッサージをしたりさせてくれました。途中で入って来た職員の方が「あら?ご家族の方?」とびっくりしていました。とても感謝しています。
心残りは最期にその看護士さんに会えなかった事です。
手紙を書こうか、電話をしようか、と考えながら日々時間ばかりが過ぎてしまいます。
千葉県内の緩和ケア病棟の一室で、窓の外は病院の広大な駐車場、その先には畑が広がる、見晴らしの良い部屋でした。
緩和ケア病棟に移ってから母はあまり話の出来ない状態になっていました。
それでも脳転移の処置の効果が現れ、吐き気はすっかり抜けて毎日「◯◯が食べたい」と食事のリクエストがありました。
その◯◯を作るために車で5分くらいのジャスコに行き食材を揃え、病室の電気コンロの限界にチャレンジ!という感じで毎日色々と作っていました。
母は貝のお味噌汁が大好きで、病室でも毎日必ず作っていました。
今でもしじみやあさりのお味噌汁を作るとお仏壇にお供えします。
母が痰がつまり二度目に呼吸困難になった時に病室の担当看護士さんに呼ばれました。
自分の経験によるとそのような状態になってからの予後はあまり良く無い、なるべく一緒にいられる体勢は作れますか?との事、その言葉で私は仕事のキャンセルをして、後先考えずに病室に泊まり込みの生活を選択しました。
その看護士さんは緩和ケア病棟専門の看護士さんで、私の話も良く聞いて下さいました。
また母の入浴の際には看護士さんが着るような防水の前掛けを私にも貸して下さり、一緒に体を洗ったり、マッサージをしたりさせてくれました。途中で入って来た職員の方が「あら?ご家族の方?」とびっくりしていました。とても感謝しています。
心残りは最期にその看護士さんに会えなかった事です。
手紙を書こうか、電話をしようか、と考えながら日々時間ばかりが過ぎてしまいます。
2008年8月12日火曜日
明日
明日8月12日は母の月命日です。
あれから一ヶ月。あっと言う間のような気もしますし、1年のように感じたりもします。
母はどこへ行ってしまったのか。
良く夢にも登場しますが、いつも闘病中の姿です。元気な時の母は出て来てはくれません。
我が家に母の位牌が届きました。
父から分け位牌の許可をもらい注文していたのです。既に仏壇は用意していたので位牌を入れ、あとは納骨の時に位牌を持参して読経してもらえば仏壇として完成という格好になります。
納骨の時に母の遺骨を少しもらおうと思い、仏壇に置けるくらいの小さい骨壺をネットでオーダーしました。
まだまだ気持ちの整理は付きませんが、自宅に祈る場所がある事で少しだけ落ち着きを取り戻しました。
反面、様々な後悔が押し寄せて来ています。
あれから一ヶ月。あっと言う間のような気もしますし、1年のように感じたりもします。
母はどこへ行ってしまったのか。
良く夢にも登場しますが、いつも闘病中の姿です。元気な時の母は出て来てはくれません。
我が家に母の位牌が届きました。
父から分け位牌の許可をもらい注文していたのです。既に仏壇は用意していたので位牌を入れ、あとは納骨の時に位牌を持参して読経してもらえば仏壇として完成という格好になります。
納骨の時に母の遺骨を少しもらおうと思い、仏壇に置けるくらいの小さい骨壺をネットでオーダーしました。
まだまだ気持ちの整理は付きませんが、自宅に祈る場所がある事で少しだけ落ち着きを取り戻しました。
反面、様々な後悔が押し寄せて来ています。
2008年7月28日月曜日
コメントを頂いていて....
公開、非公開のコメントを頂いていました。そのレスが遅くなりました事をこの場を借りてお詫び致します。
同じような立場で気持ちを分かって下さる方がいる事が今の私には救いです。
また、今現在も闘病をされている方々やそのご家族の皆さん、どうか体力を温存する事を第一に治療を選択していって下さいね。作用と副作用のバランスは医師では無く、近くで見守る家族が見て計る事だと私は思っています。
私は母が最後にした抗がん剤を、何故ペンディングにして、翌週からタルセバに移行しなかったのか、本当に後悔しています。
主治医はタルセバの副作用の危険性を示唆しながらも、上昇し続ける腫瘍マーカーの値を見て今までと同じ薬剤での治療を勧めました。
その判断が間違っていたと言うつもりも無いのですが、そこでその主治医の判断を阻止して別の方向性を示せたのは私しかいなかったと思うのです。タルセバが使える状態でいながら何でそれを言い出せなかったのか、決断出来なかったのか。
反面そこでタルセバに踏み切っていても効果が上がる確証はありませんでした。後戻りの利かない選択肢は常に賭けでした。
見ないように、見ないようにしようと思いながら、母からもらったメールを探して読んでしまいました。
今年4月8日のメール。4月末に一緒に行こうと思っていた湯沢旅行の待ち合わせ場所を決める内容でした。結果その旅行には吐き気が治まらずに行けなかったのですが。
そのメールをもらった前日に母が桜を見たいとの事で、実家近くのある公園に二人で行ったのです。
母は珍しく「絶対にそこに行きたい」というような言い方をしました。
桜は4割方散っていました。
正直私が東京で見ていた満開の桜からすると迫力に欠けていましたが母はご満悦で「綺麗だわ〜」と連発して、「これが最後の桜でも、もういいわ。」と繰り返していました。
その言葉が辛くて、涙を堪えるので必死でした。
ざっと公園を一周して、母の色々な思いを聞きました。思えばそれが最後に母と過ごしたゆったりとした時でした。
メールには「今日は春の嵐が吹き荒れてなかなか眠れません。一緒に見た桜の事を思い出しています。本当に綺麗でした」とありました。
母の目に映った桜は、きっと私とは違うものだったのでしょう。
どうしようも無い悲しさに襲われています。
同じような立場で気持ちを分かって下さる方がいる事が今の私には救いです。
また、今現在も闘病をされている方々やそのご家族の皆さん、どうか体力を温存する事を第一に治療を選択していって下さいね。作用と副作用のバランスは医師では無く、近くで見守る家族が見て計る事だと私は思っています。
私は母が最後にした抗がん剤を、何故ペンディングにして、翌週からタルセバに移行しなかったのか、本当に後悔しています。
主治医はタルセバの副作用の危険性を示唆しながらも、上昇し続ける腫瘍マーカーの値を見て今までと同じ薬剤での治療を勧めました。
その判断が間違っていたと言うつもりも無いのですが、そこでその主治医の判断を阻止して別の方向性を示せたのは私しかいなかったと思うのです。タルセバが使える状態でいながら何でそれを言い出せなかったのか、決断出来なかったのか。
反面そこでタルセバに踏み切っていても効果が上がる確証はありませんでした。後戻りの利かない選択肢は常に賭けでした。
見ないように、見ないようにしようと思いながら、母からもらったメールを探して読んでしまいました。
今年4月8日のメール。4月末に一緒に行こうと思っていた湯沢旅行の待ち合わせ場所を決める内容でした。結果その旅行には吐き気が治まらずに行けなかったのですが。
そのメールをもらった前日に母が桜を見たいとの事で、実家近くのある公園に二人で行ったのです。
母は珍しく「絶対にそこに行きたい」というような言い方をしました。
桜は4割方散っていました。
正直私が東京で見ていた満開の桜からすると迫力に欠けていましたが母はご満悦で「綺麗だわ〜」と連発して、「これが最後の桜でも、もういいわ。」と繰り返していました。
その言葉が辛くて、涙を堪えるので必死でした。
ざっと公園を一周して、母の色々な思いを聞きました。思えばそれが最後に母と過ごしたゆったりとした時でした。
メールには「今日は春の嵐が吹き荒れてなかなか眠れません。一緒に見た桜の事を思い出しています。本当に綺麗でした」とありました。
母の目に映った桜は、きっと私とは違うものだったのでしょう。
どうしようも無い悲しさに襲われています。
2008年7月24日木曜日
母が亡くなって
もうすぐ二週間が経ちます。私にとってはとても長い時間でした。
亡くなる前の数日、亡くなってからの怒濤のような忙しい日々、しっかり母に思いを寄せて悲しむ時間なんてありませんでした。
今もまだ実感はありません。ただとても気持ちが不安定になっている事を感じます。
すっかり日常に戻っていますので日々色々な事があります。あ、これを母に伝えよう、と思う度に「もういないんだ...」と思います。でもそこで泣いたり出来る程の暖かな感情の動きも無いのです。ただ愕然とするだけです。
今日は仕事帰りに、母が5月に脳転移の処置で東京で入院していた病院の近くを通りました。胸が締め付けられるような気持ちになりました。あの頃は母はこの世にいて、毎日会えて、会話もしていたのに。あれからたった二ヶ月しか経っていないのに。
でも本当の悲しさはこれから来るのだと思います。
母の死に関して一つだけ良い事は、もう母は治療はガンの進行に苦しまなくて良いのだという事、そして私もその姿を見なくて良いのだと言う事。私たち親子の戦いはやっと終りました。
なんだかぼやきのような記事になってしまいました。いずれにしても母が亡くなった後にこの形でのブログを続けるのは本意ではありません。近い内に別の形に置き換えるか、閉じるか、考えようと思います。せっかく「ガン友MAP」を通して訪れて下さった方をがっかりさせてしまうのは本末転倒です。
亡くなる前の数日、亡くなってからの怒濤のような忙しい日々、しっかり母に思いを寄せて悲しむ時間なんてありませんでした。
今もまだ実感はありません。ただとても気持ちが不安定になっている事を感じます。
すっかり日常に戻っていますので日々色々な事があります。あ、これを母に伝えよう、と思う度に「もういないんだ...」と思います。でもそこで泣いたり出来る程の暖かな感情の動きも無いのです。ただ愕然とするだけです。
今日は仕事帰りに、母が5月に脳転移の処置で東京で入院していた病院の近くを通りました。胸が締め付けられるような気持ちになりました。あの頃は母はこの世にいて、毎日会えて、会話もしていたのに。あれからたった二ヶ月しか経っていないのに。
でも本当の悲しさはこれから来るのだと思います。
母の死に関して一つだけ良い事は、もう母は治療はガンの進行に苦しまなくて良いのだという事、そして私もその姿を見なくて良いのだと言う事。私たち親子の戦いはやっと終りました。
なんだかぼやきのような記事になってしまいました。いずれにしても母が亡くなった後にこの形でのブログを続けるのは本意ではありません。近い内に別の形に置き換えるか、閉じるか、考えようと思います。せっかく「ガン友MAP」を通して訪れて下さった方をがっかりさせてしまうのは本末転倒です。
2008年7月17日木曜日
終りました
昨日母の通夜、葬儀を終えました。
亡くなったその日から連絡関係、葬儀の準備、自宅通夜でしたので家の準備などなど...怒濤のような数日間でした。悲しんだり泣いたりしている時間も余裕もありませんでした。ある意味ありがたかったです。
母はお骨になって小さな箱に納まりましたが、今でも母がいなくなった事が信じられません。玄関が開く音がすると母の「ただいま〜!」と言う声が聞こえてくるような気がします。車の助手席に座っているような、食卓に座っているような、そんな気もします。全く母の死を受け入れられていない自分自身を自覚しています。
本当に死んでしまったのだと自覚する時に深い悲しみがやってくるのでしょうね。
私が母の緩和ケア病棟病室に宿泊していた最後の二週間は正にプレゼントのような日々でした。
まだ食欲のあった母に食べたいものを聞いて一日3食作りました。日に日に体調が下り坂になっていくのは分かっていましたが、どうかこの日々が長く続くよう、祈るように毎日生きていました。
緩和ケア病棟に移ってからは母は完全に寝たきりになっていました。それでも「自分で動きたいからリハビリがやりたい」と言い、毎日リハビリを受け、病院近くの温泉旅館に家族で行くのを目標にしていました。
次第に痰が自分で出せ無くなり、何度か呼吸困難になり、呼吸を楽にする為にモルヒネの投与が始まりました。
病棟医師からは全身状態と症状からあと数週間だと言われましたが、実際はもっと早くに状態は悪くなりました。
母のぜぇぜぇという苦しそうな寝息で眠れない日々でしたが、医師曰く、こちらが思うほど本人は苦しさを感じていないはずだといく事でした。その言葉を信じて、決定的に痰が喉につかえないようにだけ注意して見守っていました。
この時点で嚥下が困難になっていました。意識レベルもどんどんと下がっていったようでした。
母と最後に交わした会話は何だろう、と今になって考えています。
最後の会話をしたのは、私が夜、電話の用を済ます為に部屋を30分ほど外し、戻って来た時だったと思います。
滅多にそういう事を言わない母が「どこに行っていたの?不安になった。」と手を出して来たのです。その手を握り謝って、私は母に眠れないのか、と訊ねました。眠れないから睡眠薬をもらって欲しい、と頼まれ薬を飲ませました。
それでも眠れないから何か話をして、と母に頼まれ、珍しい事を言うなぁ、と思いながら、私がまだ幼い頃、父のいびきがうるさくて眠れず、母と私でリビングに避難して、深夜インスタントラーメンを半分ずつ食べた話をしました。母は「そんな事あったかしらね。覚えていない」と言いました。
その翌日から容態が悪化したので、多分それが最後の会話だったように思います。
何だか支離滅裂な記事になってしまいました。
後日また書きます。
亡くなったその日から連絡関係、葬儀の準備、自宅通夜でしたので家の準備などなど...怒濤のような数日間でした。悲しんだり泣いたりしている時間も余裕もありませんでした。ある意味ありがたかったです。
母はお骨になって小さな箱に納まりましたが、今でも母がいなくなった事が信じられません。玄関が開く音がすると母の「ただいま〜!」と言う声が聞こえてくるような気がします。車の助手席に座っているような、食卓に座っているような、そんな気もします。全く母の死を受け入れられていない自分自身を自覚しています。
本当に死んでしまったのだと自覚する時に深い悲しみがやってくるのでしょうね。
私が母の緩和ケア病棟病室に宿泊していた最後の二週間は正にプレゼントのような日々でした。
まだ食欲のあった母に食べたいものを聞いて一日3食作りました。日に日に体調が下り坂になっていくのは分かっていましたが、どうかこの日々が長く続くよう、祈るように毎日生きていました。
緩和ケア病棟に移ってからは母は完全に寝たきりになっていました。それでも「自分で動きたいからリハビリがやりたい」と言い、毎日リハビリを受け、病院近くの温泉旅館に家族で行くのを目標にしていました。
次第に痰が自分で出せ無くなり、何度か呼吸困難になり、呼吸を楽にする為にモルヒネの投与が始まりました。
病棟医師からは全身状態と症状からあと数週間だと言われましたが、実際はもっと早くに状態は悪くなりました。
母のぜぇぜぇという苦しそうな寝息で眠れない日々でしたが、医師曰く、こちらが思うほど本人は苦しさを感じていないはずだといく事でした。その言葉を信じて、決定的に痰が喉につかえないようにだけ注意して見守っていました。
この時点で嚥下が困難になっていました。意識レベルもどんどんと下がっていったようでした。
母と最後に交わした会話は何だろう、と今になって考えています。
最後の会話をしたのは、私が夜、電話の用を済ます為に部屋を30分ほど外し、戻って来た時だったと思います。
滅多にそういう事を言わない母が「どこに行っていたの?不安になった。」と手を出して来たのです。その手を握り謝って、私は母に眠れないのか、と訊ねました。眠れないから睡眠薬をもらって欲しい、と頼まれ薬を飲ませました。
それでも眠れないから何か話をして、と母に頼まれ、珍しい事を言うなぁ、と思いながら、私がまだ幼い頃、父のいびきがうるさくて眠れず、母と私でリビングに避難して、深夜インスタントラーメンを半分ずつ食べた話をしました。母は「そんな事あったかしらね。覚えていない」と言いました。
その翌日から容態が悪化したので、多分それが最後の会話だったように思います。
何だか支離滅裂な記事になってしまいました。
後日また書きます。
2008年7月12日土曜日
長らくのご無沙汰でした。
母は今日7月12日朝五時十二分、安らかに旅立ちました。
最後の二週間、私は仕事を整理して母の緩和ケア病棟病室にずっと宿泊していました。とても貴重な時間でした。
最後の一呼吸を母の手を握りながら見届けました。最期を看取れて幸せです。
詳しくは落ち着いてから又アップしたいと思います。
このブログを通じて励まして下さった皆様、本当にありがとうございました。
また書きます。
最後の二週間、私は仕事を整理して母の緩和ケア病棟病室にずっと宿泊していました。とても貴重な時間でした。
最後の一呼吸を母の手を握りながら見届けました。最期を看取れて幸せです。
詳しくは落ち着いてから又アップしたいと思います。
このブログを通じて励まして下さった皆様、本当にありがとうございました。
また書きます。
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