2011年1月4日火曜日

2011年

明けましておめでとうございます。大変ご無沙汰しています。
まだこのブログを訪ねて下さる方はいるのでしょうか....。


ブログを更新しなくなったからと言って母が亡くなった悲しみが癒えた訳では勿論ありません。
最後の更新から色々な事がありました。
具体的な事は控えますが、2011年はプライベートでは新たな決心や決意が必要な時期なのかも知れません。


母は見ていてくれているのかしら、見守っていてくれるのかしら、と良く考えます。
どれだけ耳を澄ませても一方通行ですが、良く母に声に出して話しかけたりもしています。
母は亡くなる前に私にこう言いました。
「もしも私が死んで、あの世からあなたを見る事が出来たら、絶対に守ってあげるからね」と。
どうか、私のゆく道を照らしていてね。


年末年始は主人の実家、父の独居の実家へとはしごしました。
どこへ行っても私の安らげる場所はありませんでした。
一人ではないことに感謝はしていますが、家族、と言う枠組みの中で、私にとって母は大き過ぎました。
その母を失ってから3回目のお正月ですが、心は帰る場所を失っています。


上げ膳据え膳など期待していませんが、家族の中心とも言える母親のいない年始にアンバランスさを感じ続けています。


今年はまた少しずつ更新していけたらと思っています。
気が向いたらまた覗いてくださいね。


今年は1/3から仕事初めでした。
仕事をしていた方が精神的には落ち着きます。ありがたいことですね。

2010年7月11日日曜日

明日は三回忌

 また久々の更新となりました。
じめじめ、ムシムシと暑い季節、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 6月末に旅行へ行ってきました。
たまたま仕事がぽっかりと空いたので「今だ」とばかりに沖縄へ旅立ちました。10数年ぶりの一人旅です。
梅雨明けの沖縄は灼熱の南国、海辺でゆっくりと過ごすなんて事は出来ません。暑過ぎて熱中症になってしまいます。
もっと泳ぎが堪能であれば泳いだのに。私は水がコワイのです。

 一人旅ゆえ、起きたい時間に起きて、見たい場所を自分のペースで周り、食べたいものを食べる。とても気楽です。
その中にも色々な出会いがあり、心に残る出来事もあり、とても感動的、かつリフレッシュ出来た贅沢な数日間でした。
この旅中、どこに行くのにも母の写真と手元にあるほんの少しの遺骨も持参しました。一緒に旅をしているもの、とイメージしながら。

 
 話は変わりますが、長年の友人がヒーラーとして一人立ちしました。彼女の聡明な人格、またストイックな修行の流れを見ていましたので、とても嬉しく思い、早速セッションを受けに行きました。
色々と話が進む中、私の肩にはとても暖かく微笑んでいる(むしろいつも笑っている)身内がしっかりと守るべくしている、と言われました。間違い無く母だと思うのです。
母は亡くなる前に「もしも江原さんの言うような世界が本当にあるのだとしたら、私が死んだらあなたの事を守ってあげるからね」と言いました。
その時は悲しくて「変な事言わないで」と言う返答しか出来ませんでしたが、今はただ「お母さん、ありがとう。これからも私を守っていてね」と心から感謝を込めて言いたいです。


明日は母の三回忌を行います。
翌日7/12は母の2回目の命日です。早いものですね。

母の顔を見なくなり、声を聞かなくなってもう2年も経ちました。
今でも毎日話しかけます。母に問いかけます。ヒーラーの友人の言う事を信じるならば、母はずっと私と一緒にいてくれている。
いまだに悲しくて、悔しくてどうしようも無い感覚に襲われる時がありますが、そんな時、母は今は安らかな場所にいるのだと、だから私も心静かに母を思い出そうと、そう思えるようになりました。
明日は笑顔で手を合わせられますように。



 

2010年6月13日日曜日

6月を迎えて

 いつもの事ですが、月命日を忘れてしまいます。
今月に関して言えば昨日。12日が母の月命日です。そして来月7月12日が母の命日です。父の誕生日の1日前です。母の亡くなった日の夜に、集まってくれた友人たちと一緒に父にハッピーバースデイを歌った事を思い出します。間違い無く母の差し金(?)なのでは、と今では思います。父が一人きりの誕生日を迎えないように、と言う母の計らいを感じるのです。

 父が退院しました。
まだ完全では無いですが、ずっと悩まされていた痛みからは解放されるきざしが見えました。
今回父の入院で、母が生きていれば、と何回思った事でしょうか。思っても仕方の無い事なのですけれど。でもきっと私以上に父自身がそう感じたのかも知れません。

 
 母は亡くなる前に私に言いました。
「もしも私が死んで、あの世であなたの事が見えたなら、守ってあげるからね。」


 今でもその言葉に支えられています。生きていればきっと色々な事がある、でも母が見守ってくれているのなら頑張れる。
時間がかかっても乗り越えられる、そんな気がするのです。

 来月は母の三回忌です。

2010年5月11日火曜日

5月

 こんにちは。ゴールデンウィークが明け、世の中が通常の動きに戻り、私のような旗日で仕事をしていない人間はホッとします。
ゴールデンウィーク中も変わらずに仕事をしていました。高速道路での移動をしなくてはいけなかったのですが、本当にひどい渋滞に苦しみました。高速道路料金の見直しに関して思うのは「仕事ドライバーに少しはメリットを!」です。運送関係のみならず、私のように仕事で車を使わざるを得ない職種にも週末祝日の移動は憂鬱です。もちろん恩恵を受ける事もありますので、観光に出かけるドライバーさんたちとのバランスを考えて、まず第一にこの殺人的な渋滞を回避するシステムを作って欲しいです。


 全く関係の無い話題から始まりましたが。。。
連休明けに父が入院しました。ずっと苦しんでいた腰椎の痛み(脚の痛み)を治す手術を受けるためです。母が亡くなってから独り暮らしを続けている父は、このまま痛みが引かずにいたら歩けなくなるかも知れない、と言う恐怖を抱えていたようです。数ヶ月レベルの入院になる可能性もありますが、今後安全に歩行出来る可能性と引き換えに踏み切った手術です。

先日手術は予定通りに行われました。
腰部を切開、腰の骨にビスを入れ、自分の骨を削って埋め込む、と言う大手術でした。
術後、全身麻酔が覚め始め、意識が戻ってくると共に父は傷口の壮絶な痛みに襲われ、痛い、痛い、痛み止めを打って欲しい、とうなっていました。早急に座薬と注射での投薬を開始してもらいましたが、なかなか効かず、父はずっとうめいていました。
現代医学において術後の疼痛がこれ程にひどい事ってあるのでしょうか。

どうする事も出来ず、母に祈りました。
どうかお父さんを守って、お母さん、お願い、と病室の窓の外に手を合わせました。
そしてもう一度看護師さんに「痛み止めが効かない、このままだと眠る事も出来ないから何とかして欲しい。もっと強い薬を投薬して欲しい」と頼みました。
「これが一番強い薬なんです」と、あっさり言われたものの、このままだと生殺しです。

そこに主治医が病室を訪れました。痛みがひどくて堪え難い事を伝えると「麻薬系の薬がありますが使いますか?」と聞かれ、即答でお願いしました。
母の時と同じモルヒネ系の沈痛剤です。

さすがの効き目でほどなく父は眠りに落ちたようでした。母への願いが届いたのでしょうか。


病院での一連の作業や交渉は母の時と同じで慣れています。でも病院と言う空間に長くいる事には慣れません。
どうしても母と最期に過ごした病室を思い出してしまいます。またそれ以上に母を看取ってから、しばらく病気や病院と言う事を忘れたかった気持ちも強いです。
母が生きていれば父の入院ももっと違ったものになったかも知れません。父もきっと同じ思いなのでは無いかと思います。


父の手術が終わるのを病室で待っている間に一瞬の眠りに落ちた時、短い夢を見ました。
病室の前の廊下を母が歩いてこちらへ近づいてくる夢でした。母は笑顔でした。すぐにそれは夢だと気付きましたが、もしも本当に母が生きていたら、明るい母の事ですから、こんな風に笑顔で「お父さん、どうかしらね〜?うまくいったかしら」なんて話していたことと思います。
でももしかしたら父の入院に付き添っている私に母が会いに来てくれたのかも知れません。そんな祈りに似た思いもあります。


夢の話はまだ続きます。
その日の夜も母は夢に出て来ました。夢の中の母は珍しくとても元気そうで、ちょっと見慣れないおしゃれをしていました。
母が亡くなる1年くらい前までは母と定期的に二人で旅行をしたのですが、その関連の夢のようで、私たちはどこかの旅行先で公園を散歩していました。川の水が溢れそうなくらいの勢いで流れていた事を覚えています。
お土産を買おう、と言う事になりお店に向かって歩き、ふと母の顔を見ると母は泣いていました。「もうすぐあなたにも会えなくなる」と言って泣いていました。

そんな夢です。
やっぱり悲しい夢になってしまうのですね。

母は亡くなる数ヶ月前から「お父さんの事を頼んだわよ」と何度も何度も私に言いました。
今父の為に遠い病院へ通い、入院中の世話をしているのも「もしかしたら母が見てくれて感謝してくれているかも知れない」と言う思いに支えられているからです。


少し前に上原美優さんと言う若いタレントさんのお母様が急死された時のインタビューを見ました。その中で「今までテレビに出て頑張っていたのって、ぶっちゃけお母さんに見せたいからだったんです」という言葉を聞きました。無駄に涙も流さずにそう語った若い彼女の本音を聞いた思いでした。
こんな年になってもまだ「母に見せたいから、見ていて欲しいから」と言う思いは抜けません。


何か良い仕事をした時や特別な事がある時、「お母さんに言おう!」と今でも思います。
でも今は言わないでもきっと見ていてくれる、全部分かってくれているんだ、と思い直すのです。


また思いつくままにダラダラと書いてしまいました。
読んで下さった方、本当にありがとうございました。









 

2010年4月2日金曜日

桜の季節になりました。

 また随分とご無沙汰してしまいました。ここを訪れて下さっている皆様、お元気でしょうか?
昨日から4月になったとは言え、夜はまだ冷え込みます。
今日は休みでしたので夕方に缶ビールを持って近所の公園へ赴きました。近隣だとナンバーワンの植樹数を誇る桜は八分咲きまでゆかず、七分くらいの開き方ですが充分綺麗で、幻想的な桜のアーチの下でしばし一人でビールを飲みました。

 覚悟をしていた事ですが、桜を見ると母の事を強く思い出します。
2008年の記事
母にとっては人生最後の桜になってしまった実家の近くの公園の桜はまだ二分も開いていません。

 母と眺めた桜。
公園を散歩しながら「もう治療に疲れた」「これが人生最後の桜になるのならそれでもいいわ、むしろその方がいい」と母は私に言いました。
あんなに明るく元気だった母、姑を看取り、都内の家を売って念願の田舎暮らしを始めて楽しそうに花を育てていた母、まだ老後を充分謳歌出来る年齢なのに何故?!と母と二人桜の下を散歩しながら、私の心中は母に起きている事の理不尽さと不条理に神様をも恨む思いでした。

その頃から母は鬱状態が悪化して、良く「死にたい」「こんな苦しい思いをするのなら早く死にたい」と私や父に言うようになりました。
母は本当に死にたかったのだろうな、と最近は思います。
そんな事言わないで、とか、まだ治療の可能性があるのだから、などとしか言えなかった私。母の死にたかった思いに少しでも寄り添えたら良かった、その頃の母にとって死とは、治療や衰えて行く身体からの解放だったのだと今では思うようになりました。

人は遅かれ早かれ誰もが死にゆくのですよね。
あの世から見たら人ひとりの一生なんてアッと言う間だとか。いずれまた会える、一時のお別れなのだと。
私が旅立つ時には迎えに来てね、と母にお願いしています。
母の死を見届けて私自身の死生観も少し変わりました。


最後に。
母の仏壇には花が大好きだった母の為に生花をいつも置いています。
スーパーの花は持ちが悪いし、仏花はあまり綺麗じゃ無いし、気軽に切り花のセットを買える花屋さんが出来ないかな、と思っていたら、その願いが叶いました。自転車で10分くらいのところに新しくお花屋さんがオープンして、500円でこぢんまりとした綺麗な洋花の束が買えます。
静かな喜びでした。

切り花も良いけれど、今年はこっそり桜を枝ごと花泥棒して母に見せようかしら、なんて思ってもいます。

2010年2月15日月曜日

コメントをありがとうございました!!

2月も半ばになりました。寒さがぶり返している昨今ですが、皆様、風邪などひいていませんか?
私は数週間前にウィルス性の胃腸炎なるものにかかり、数日間飲み食いに難儀しました。二日酔いと胃もたれを足して二で割ったような状態に発熱が加わった症状でした。

相変わらずの遅いレスですが、頂いたコメントに返信をさせて頂きました。こんな気まぐれなブログに立ち寄って頂き、本当にありがとうございます。この地球のどこかで同じような気持ちを分かち合える仲間(あえてそう言わせて下さい)がいてくれる事が、今の私にとって何よりの救いです。


ここに来て寒さは本格的ですが、明らかに春の息吹も感じられます。我が家の庭に芽吹いたふきのとう。お隣のおうちに咲いている梅。
季節がめぐっている事を感じます。

ふきのとうと言えば、母と過ごした最後の春先、自宅庭で採取したふきのとうを実家に持参して天ぷらにした事を思い出します。
姉の子供たちは「苦い!」と言って敬遠していましたが、父も母も美味しいと言って食べてくれました。
母はもう食欲があまり無くなっていた時期で、もしかしたら無理して油ものを食べてくれたのかも知れません。
私は子供の頃からフキが大好きで、母が煮付けたフキを幼少の私がつまみ食いをして、気付いたらお鉢一杯分無くなってたのよ、なんて言う思い出話を母がしていた事を懐かしく思い出します。


話は変わりますが、ここ最近、仕事面の人間関係がすれ違う事が多く、ちょっと落ち込み気味です。
人は誰しも自分のペースや価値観で生きているもので、もちろん歩み寄りはあるにしても、仕事であろうがプライベートであろうが、自ずとストレスが少ない方へ流れていくものと思っていました。
でも自分に関して言えば、年を追うごとに人間関係のストレスは増えていくばかり、もしかしたら自分自身がおかしいのか、とまで思うくらいのすれ違いを様々なシーンで感じる昨今です。

特に母がいなくなってからの出来事に、そう強く感じる事が多くなりました。
人は誰しも一人なんですね。生まれるのも、死んでゆくのも一人。
家族であっても、友人であっても、色々な時期があり、近く感じる事もあれば、離れた方が賢明な時期もあり。

母がいなくなった事で私は孤独を学びました。また、これまで孤独を知らずに生きて来られた事はありがたい事だったと言う事を学びました。

このブログには何度か書いていますが、母の肺癌が悪化し、治療の希望が薄くなって来た頃、母は鬱状態になっていました。
母はとてつも無い、深い孤独を感じていたのだと思います。私がどれだけ母を思っていても決して成り代わる事は出来ず、母は独り「死」と言う未知の恐怖と対峙していたのだと思います。

その頃、「もうこんな状態だったら死んでしまいたい。」と何度聞かされたでしょうか。
あんなに明るく、元気だった母からこんな言葉を聞くとは夢にも思いませんでした。
その頃母が感じていた孤独と私が今感じているものとは異質のものだとは思いますが、母からは「強く生きなさい。」と言われているような気がしてならない今日この頃です。

2010年1月12日火曜日

2010年になりました。

 年が明けて最初の記事です。前回が昨年12月のアップですので、私にしては上出来かも知れません。
コメントを頂いた皆様、本当にありがとうございます。みなさんの言葉に、思いにどれだけ救われている事か、うまくお伝え出来ませんが、本当にそう感じています。遅くなりましたがレスを書かせて頂きました。

 喪が明けて今年は一年振りに「おめでとう」と言える新年を迎えました。
お正月は元旦から父の独居の実家に行き、姉一家と賑やかに過ごしました。
母の闘病中は母の看病に対する温度差に苛立ち、姉とは一時関係が悪くなりましたが、今になって思えば、二人の子供を抱え、姉は姉なりに身動きの取れないジレンマを感じていたのでは無いかと慮るようになりました。
母が緩和ケア病棟で亡くなる数日前に「韓国料理が食べたい」と言い出し、姉が自宅近くで韓国料理をテイクアウトして長女と一緒に病室へ来てくれた事があります。その時に美味しそうに食べる母を見て満足そうにしていた姉は「ああ、これが出来て良かった」と言いました。
義兄の実家よりも先に子供を連れて実家へ来てもらえたのは正直ありがたかったです。父と二人ではあまりにも渋く静かなお正月となった事でしょう。


 この場ですので正直に告白しますと、母とは友人関係のような関係であった私ですが、反面父とはまっとうな親子関係は未だに築けていません。
高度成長期のサラリーマンであった父は私の子供時代および成長期には仕事で殆ど家にはおらず、子供の事は全て母に任せていたと言うコミュニケーション不足からなのでしょうか、今でも共通の話題が殆ど無く、実家に滞在しても話す事はあまりありません。父は私がどんな食事を作っても「美味しい」も「ありがとう」もありません。態度を見ていると感謝の気持ちが無い訳では無いようなのですが、言葉にして言えないのです。
私も私でもっと優しい言葉をかけられれば良いのですが、ついついつっけんどんになってしまいます。お互いが呼んでいるムードですね。父には本当に申し訳無いのですが、正直毎月の実家滞在が憂鬱に感じたりもしています。
でもまだ体が元気で一人で暮らしてくれている父には感謝しなくてはいけないかも知れませんね。
あまり自分を追いつめず、父の老いに沿いながら良い関係を築き直していければと思います。

 そんな事を思う度に,母が亡くなる前に「お父さんの事を頼んだわよ」と再三言っていたのを思い出します。
母はまさか自分が先に逝くとは思っていなかったのでしょう。今の私や姉を見て母はどう思っているのでしょうか。

 
 話は変わります。
新年は5日から仕事初めでした。昨日まで現場である表参道に通っていたのですが、駐車場の近くにある洋服店のマネキンが、母が良く着ていたものと同じようなダウンコートとパンツを身に着けていました。たかだかマネキン人形なのですが、無性に悲しくなって仕事帰りの車の中で泣きました。母が亡くなってから思わぬ所に悲しみの地雷があります。

 この悲しみは近い友人にも、主人にも分かってもらえない。同じ経験を持つ人にしか分からない、そんな気持ちから家に帰ってから泣くよりも一人の車の中で涙を流す事が一番多いように思います。どうにも気持ちがおさまらない時は自宅の近所に車を停めてしばし気持ちが落ち着くまで待つ事もあります。孤独を感じる瞬間ではあるのですが、自分自身と向き合う事で悲しみと向き合い、向き合う事で少しずつ癒されていくのかも知れない、と最近では思います。

 思いつくままにつらつらと書きました。
新しい年が皆様にとって希望の持てるものでありますように。


 2010年 ぽん


 
 

 

 

2009年12月2日水曜日

12月になりました。

 あっと言う間に前回の更新から三ヶ月も経ってしまいました。最近頂いたkomaさんからのコメントに心を動かされて再び記事をアップする気持ちになりました。

 11月は仕事に追われて毎日目先の事をこなす事を考えてばかりでした。この1年、時間に追われ、余裕の無い割には身入りの少ない日々を過ごしていたように感じています。(つまり労働に対する収益のバランスが悪いと言う事です)
 私は長い事フリーランスで仕事をしているのですが、この不景気の中、きっと会社勤めの方々も同じような思いをされているのかも知れませんね。

 
 母が亡くなってから父が一人暮らす実家には月に一度2泊しています。その際母の部屋に寝泊まりをしているのですが、先日ふとした事から肺癌の告知を受けた直後の母の日記のようなノートを見つけてしまいました。
 告知直後の日記には「どうして私がこのような事になったのか分からない。誰か助けて欲しい。お母さん、助けて。」とありました。お母さん、とは母の亡くなった実母の事です。
 「健康な人がまぶしく見える。」「気持ちに余裕が無く孫たちに辛くあたってしまった。」「お父さん(父の事)と揉めてしまった。病気になってから喧嘩が絶えない。仲良くしたいのに。お父さん、ごめんね。」「次女(私の事)が来てくれた。彼女が私の支えだ。」

 そんな事などなど。。。母にしてみたら誰にも吐けなかった気持ちが書いてありました。
脳転移が分かり最初のガンマナイフを受ける前に私が送った荷物に同封した走り書きのような手紙もノートに貼ってありました。

 その後母はイレッサが著効して1年くらいは安定した時期を過ごすのですが、ガン告知直後の母の悲しみ、孤独感を直に感じて涙が止まりませんでした。もう3年も前の事ですが、この頃の母は私の中にも強く、鮮明に残っています。
 甘えた考え方ですが、「守ってくれる」存在であった母がとても弱くはかない存在に思え、私はただ母を助けたい思いで必死でした。

 
母親を失うと言う事はいくつになっても子供にとってとても大きな事なのだと感じています。母親がこの世に生きているだけで、何かあってもどこかで自分を守ってくれている傘のような存在を感じているものではないでしょうか。
いつかは誰もが味わう事だとは知りながら、私はその大きな傘を失うことで今まで感じた事の無いくらいの深い孤独を知りました。
と同時に、今思えば、ようやく私が精神的に母から離れ人間として自立へ向かった時期でもあったのかも知れません。

母が亡くなってから計らずも私の周りが大きく動きました。仕事面、人間関係、家族関係、私が他人や自分自身を見つめる目、今現在も明らかに変化を繰り返しています。正直こんな時にどうしてまた、と思ってしまうくらい辛い出来事もいくつかありました。
でも生きて行くしか無い、前に進むしか無いのだと思い、日々暮らしています。

誰にでもあると思うのですが、何もかも嫌になってしまう時。
そんな時には少し足を止めて休み、自分を甘やかし、元気になった頃には笑顔でまた歩き出す、そんな人間の再生の強さを母は教えてくれようとしているのかも知れません。

今はただ母からもらった命を精一杯燃やし続ける事しか出来ません。



 
 
 
 

 
 

2009年8月22日土曜日

8月

 半ばを過ぎました。
8/15には実家へ行き、母のお盆を済ませました。
父とはあまり突っ込んだ会話をしませんが、灯籠を買い、いつも以上に花をお供えしていて父なりに母を迎える準備をしていたようです。

 今日テレビで偶然、ガンの最新治療をテーマにした番組を見ました。
アメリカのMDアンダーソンがんセンターが特集されていて、母の闘病中に掲示板でお世話になった上野医師もインタビューに登場しました。


 肺癌を克服したフィギュアスケートの井上怜奈さんが同センター内で医師や患者さんたちにインタビューを行っていました。
MDアンダーソンセンターではあらゆる最先端の医療機器を取り入れ、身体の各箇所に転移がある末期の患者さんにも前向きな治療を行い、延命に力を尽くしている様子が放映されていました。末期でも諦めず、前向きに,現実的な治療を行う医師たちの姿に多くの患者さんが勇気を得た事だと思います。


 母は2006年1月、肺癌が見つかった時には既に4期、末期でした。当初一年未満と言われていた余命を大きく裏切る二年半の闘病が出来た事はもしかしたら奇跡に近い事なのかも知れません。
 病気が分かる前に、母はもっと長く生きる事が当然と思っていた私にはあまりにも短い二年半でしたが、末期の肺癌を患った患者としては延命治療が成功したと言えるかも知れません。
 
 
 母は亡くなる数ヶ月前から鬱状態がひどくなり、その頃を思い出すと今でも涙が出ます。母の口から「こんなだったら早く死んでしまいたい」と何度も聞かされて、その度に心が張り裂けそうでした。
 MDアンダーソンセンターでは精神的ケアを前提とした治療も行われているようです。日本ではどうなのでしょうか。まだまだがん患者さんのメンタルケアは形式的なものなのでは無いか、と懸念します。
 

 
 井上さんは母が在命中に心の支えにしていた人の一人です。久しぶりに彼女の元気な姿を見てとても嬉しく思いました。そんな思いからあまり意味の無い記事を書きました。
 
 明日から月末にかけて怒濤のように仕事に追われそうです。昨年の今頃は母が亡くなって一ヶ月と少したち、ほんのちょっとだけ落ち着きを取り戻した頃でした。一年が経ち、仕事に追われている自分がいる事、時の流れはありがたいような、切ないような複雑な気分です。
 

2009年8月5日水曜日

大変ごぶさたしております。

 何と4ヶ月ぶりの更新!こんなランダムなブログを訪ねて下さりコメントやメッセージを下さる方々にはありがたくて涙が出そうです。

 7月12日に母の一周忌を迎えました。
お墓のある名古屋へ父と姉と向かい、お墓へ行く前に駅構内のデパートのレストランで父のバースデーパーティーをしました。
父の誕生日は母の命日の翌日。父が一人残されても寂しい誕生日にならないように、と言う母の計らいを感じざるを得ません。

 私にとって母が亡くなって一年と言う年月はとてつも無く長かったような、アッという間だったような、今までに味わった事の無い時間の流れを感じる日々でした。
 ただ言えるのは、一年が経ち、ようやく悲しみが現実のものとなり、今まで以上に母に会いたい、話がしたい、と思ってしまう事です。

 特に母が亡くなったこの季節の到来で、より鮮明に亡くなる寸前の事を思い出してしまいます。
緩和ケア病棟に入ってからの2週間、同じ病室に寝泊まり出来た事は今となって思えば宝物のように貴重な時間でしたが、同時に胸が張り裂けるくらい切なく悲しい時間でもありました。
 
 毎日母の仏壇には手を合わせ、この無精者の私が生花を絶やした事はありません。それ自体自分でも驚きですが、こんな風にして人間って故人と繋がっていくものなのだと、大切な人を何人も失っているであろう目上の人たちの信心深さを見て納得したりもしました。
 
 最近は仕事で私生活で、何か困難、難儀な事が起きた時に心の中で母に話しかけます。「お母さん、どうしたらいいかな?」と言うように。一人でいる時などは実際声にも出しています。
 もちろん回答は聞こえませんが、「きっと母ならこう言っただろうな」と言うところで自分なりの落ち着き所を見つけたりしています。

 あまり詳しく話す事に意味が無いので避けますが、とても身近で信頼していた人物に長い間ウソを付かれていた事を母が亡くなった数ヶ月後に知りました。あまりにショックでしばらくは人間不信になりそうでした。まだ完全には乗り越えてはいませんが、今なんとか自分自身の生き方を見つめる事で立ち直りつつあります。
 
 考え過ぎかも知れませんが、もしかしたら母が私にその事実を知らせてくれていたように今では感じています。人間とは弱いもの。許す事は困難だけれどそう言う器を持ちなさい、どんな事があっても胸を張って生きなさい、と言うメッセージだったのかも知れない、とすら感じています。

 ※智海さん
コメントをありがとうございました。お母様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
遅ればせながらコメントのレスをさせて頂きました。

 
 
 

2009年3月25日水曜日

初めてのお彼岸

 先日お彼岸で母のお墓へ行って来ました。新幹線で2時間以内、という距離間でもなかなか足繁くは通えません。
父と姉と三人で行ったのですが、現地集合解散、お昼もそれぞれ別に取る、という何とも素っ気ない家族関係になりました。やはり家族にとって母親は皆を包んでまとめる太陽だったのだと今更ながら思います。

 何はともあれ初のお彼岸を家族三人で迎えられたのは良かったと思っています。
母の魂がお墓に留まっているとは思っていませんが、骨を納めた場所に足を運んで花をたむけ、手を合わせる事で少しだけ母と会えた気がしました。

 桜が咲き始めています。花冷えで今日あたりは随分とひんやりしていますが、昨日はそこここで咲き始めた桜を眺める事が出来ました。
何度もこのブログでは書いていますが、母と最後に桜を見たのは昨年の4月でした。
 実家を訪れた私に「桜を見に◯◯公園に行きたいから連れて行って」と頼まれて一緒に花見に行きました。もう4割ほどは散っていましたが、うららかな春の日差しが暖かい日で、母とゆっくり公園内を散歩しました。

 「ああ、綺麗。もうこれが最後の桜でいいわ」と母は言いました。
「そんな事言わないで、もっと頑張って欲しい」と言うような事を私は言ったと思います。
「だってこれでまた別の薬にして副作用があって、それでまた耐性になって、を繰り返して生きているだけじゃない。生きていると言うのは健康で美味しいものが食べられて、先の楽しみがあって、ってそういう事。私はもう疲れた。」
 母はそんな事を言いました。

 たまらなく悲しい気持ちになり涙がこぼれそうでしたがこらえました。
母の闘病を見続けて来た私には母の気持ちが分かったのです。私が同じ立場ならやはりそう思ったかも知れない。無責任に「頑張って」とはもう言えない。

 その時涙をこらえていた私は、遠い昔母と離れるのがイヤで幼稚園に行きたく無い、と毎日泣いていた私と何ら変わらないくらい不安でした。その日の夜に私は自宅へ帰りPCを見ると母からメールが来ていました。
 「今夜は春の嵐がうるさくてあまり眠れないので昼間に見た桜を思い出していました。本当に綺麗でした。」
 そのような事が書いてありました。

 母はその3ヶ月後に亡くなりました。
あの時の桜が本当に最後の桜になってしまいました。あの時母が見ていた桜と私が見ていた桜は同じだったのでしょうか。
母が亡くなって初めての桜の季節、そんな事を考えて過ごしています。





 

2009年3月2日月曜日

3月になりました

 このブログを訪れて下さる方のご家族の状態が悪化してしまったり、また訃報が届いたりすると自分自身の体験と大きく重なり本当にやり切れない気持ちになります。痛いほど気持ちが分かり、何も出来ない事に歯痒さを覚えたりもします。

 病気は本当にいやですね。どうしてガンという重篤な病気を大切な家族が負わなくてはいけなかったのか...
 病気になる事で勉強出来る事もある、という前向きな考えを提唱する人もいますが、あんなに明るく強かった母が自らの死を目前に「こんな状態で生きているのなら早く死んでしまいたい」と繰り返していた最後の数ヶ月を思うと到底私にはそんな言葉は出せません。
病気なんか無い方が良かった、母にはもっと長く生きていて欲しかった、それが今の私の心の叫びです。
 
 母の闘病から死に至るまで、もちろん得るものがゼロだったとは言いません。常に母を想い心配してくれていた母の友人達、事情を知りいつも私の事を気にかけてくれていた私の友人たち、遠方から葬儀に足を運んでくれた人たちの存在を心からありがたいと思え、人は一人では無いのだと感じさせてくれた貴重な体験ではありました。

 
 最近は実家に来るとようやく片付いた母の部屋に寝泊まりしています。片付いたとは言っても母の持ち物はまだ殆ど処分していません。自宅での葬儀の時に物置部屋のように置かれていた雑多な家財道具を元の場所に片付けただけです。

 母のパソコンもそのまま。
そのパソコン台に自分のノートパソコンを置いて使っていますが、私が送った治療に関する書類をプリントアウトしたもの、セカンドオピニオンを聞きに行く先のメモ、腫瘍マーカーその他の結果値のプリントなどを見るとまざまざと闘病の日々がよみがえります。
 母も一生懸命だったのだな、とまた涙が出そうになるのです。

 母はモノに執着の無い人でしたからモタモタと片付けをためらっている私に「使わないものはさっさと捨ててスッキリして」と言うのだろうな、と想像しています。でも娘としては母の使っていたものはなるべくとっておき出来れば自ら使いたいもの。
 
 最近とある英文の本を読み始めました。私の英語力では辞書は手放せなく、一ページ読むのにどれだけ辞書をひいているのか、という状態です。
 実家でその本を読む時には母の英和辞書を使っているのですが、最近その辞書の裏表紙に「英検受験の為に購入 1975 9月」という書き込みを見つけました。チェックした単語にはアンダーラインがひいてあったり母の勉強の足跡は感じていましたが、1975年の購入とは知りませんでした。
 
 1975年と言えば私も姉も幼稚園生と小学生。子育てに全ての時間を費やしてもおかしく無い時期に英検の受験を視野に入れて英和辞書を購入した母。
 勉強家である事は知っていましたが、改めて母の底力を知る思いでした。

 亡くなった今も母は私に沢山の事を教えてくれます。


 ▼追記
母の持ち物の中に最初の抗がん剤の脱毛の際に作った「かつら」を見つけました。
その他にも脱毛中の就寝時にかぶる手作りのナイトキャップ(専門の方に作って頂きました)、かつら付きの帽子などがあります。
 現在闘病中のご家族の為に必要な方は以下のアドレスにメールを下さい。
naokohz@yahoo.co.jp
 
 母の頭のサイズは分かりませんが156センチの中肉中背の女性でした。ヘアスタイルはストレートのショートでした。白髪は少ない方でしたのでかつらも白髪は入っていません。

 
 
 

2009年2月22日日曜日

今になって感じる事

 毎日慌ただしく、気付いてみればもう2月も末です。都内も花粉の襲撃を受ける季節、毎年の事ですがくしゃみと目のかゆみの中、もうそこまで来ている春を感じるのです。去年は本当に花粉症がひどく、仕事にならないくらいの不調でしたが今年は早めに耳鼻科で薬をもらいぼーっとはしますが何とかしのげています。

 こんなにまばらな更新の拙ブログにもまだ訪ねて来て下さる方がいて、コメントまで残して下さっている事、本当にありがたく感じています。
本来なら母が亡くなった時点で闘病記としてのこのブログを閉じるのが本筋だとは思うのですが、どこにもやり場の無い気持ちを放出できる唯一の場所という事で甘えさせて頂いています。 
 なぜならここを訪ねて下さる方々は少なからず肺癌という病気の近くにいて、同じ痛みを味わっているのでは無いかと思うからです。

 去年の今頃は母の肝転移が少しずつ広がりを見せ、数ある薬の中からイリノテカンを選択して月3回週一で単剤投与していた時期でした。
 月一の保険範囲内の腫瘍マーカー検査だけでは不安で、自費でも計っていたのでCEAの動きは頻繁に観察していました。投与中も少しずつ上がってはいましたが(記憶が曖昧ですが)脳転移の悪化から抗がん剤投与をストップしていた時期の急上昇ぶりを見るとやっぱりイリノテカンは現状維持的に効いていたのだな、と思います。

 その間、休薬の週には旅行へ行ったりもまだ出来ていました。でも食欲の低下から母の痩せ方は普通では無く、顕著に衰弱していった時期でもありました。

 何度も書いていますが、結局母は脳転移箇所の治療を行っている間の無治療期間の悪化が命取りになりました。緩和ケア病棟に移るにあたって、主治医との面接で「少しでも体調が良くなって来たらタルセバの投与を試してもらえないか」と父と私で交渉しました。緩和ケア病棟にまで来て、ましてや肺内出血も2度も起こしている本当の末期の母の容態を考えると非常識な事を言っているのは百も承知でしたが、まだ奇跡を信じていました。当然それは叶うはずも無く、主治医からは緩和ケア病棟の在り方から根本的な説明を受けることになりました。

 脳転移の箇所が吐き気をもよおす場所だった事もあって、母は随分吐き気に悩まされました。抗がん剤治療による吐き気を一番恐れていた母が、そうでは無い理由で最後の数ヶ月は苦しんでいました。

 母はサイバーナイフによる転移箇所の処置が終わり、吐き気も治まり始めていた頃に緩和ケア病棟に移りました。吐き気が治まったら食べたかったものが沢山あったようで毎日母のリクエストに応えて作り一緒に食べた食事は今では尊い思い出です。

 
 母が亡くなってから癌の治療の勉強からすっかり離れてしまったのですが、今日は久しぶりに「ガン治療最前線」というテレビ番組を見ました。
 ラジオ波や陽子線、サイバーナイフやノバリス、トモセラピーなどの最新鋭の放射線治療の存在がクローズアップされていました。
 末期と言われた肝臓ガンや大腸がんがそれによって縮小した、消滅した、など、今後のガン治療に関して大いに希望の持てる内容でした。

 母の闘病中は私も上記の治療全てに関して調べました。こと肺癌に関しては放射線は有効であるけれど病期が早期である事、すなわち転移が無い、というのが再前提でした。病巣が原発に留まっている内に原発自体を叩く事によってその後の転移も抑えていくという考え方なのですね。転移がある時点で目に見えない細胞レベルでどこにがん細胞が飛んでいるか分からない、だから放射線のような局部治療はあまり意味が無く、やはり抗がん剤治療という全身治療がより有効である、という事でした。
 もちろん番組では前向きな内容しか取り上げないのでそんな話にはなりません。でも本当に報道として真実を伝えるのであればそこまで掘り下げて欲しい、と正直感じました。
 
 転移のある肺癌で唯一放射線治療が強い味方になるのは脳転移を叩く「ガンマナイフ」「サイバーナイフ」だと思います。
 ガンマナイフはフレームを装着するので頭にビス用の穴を開けなくてはいけません。小さな傷ではありますが麻酔が切れると相当な痛みを感じるものと聞きました。また照射可能な転移の大きさに制限があり、大きな転移だと対応出来ないらしいです。その点サイバーナイフはフレーム装着が無く、顔に取り付けるマスクを作るだけです。ガンマに比べて大きな脳転移にも照射可能なので脳転移にはサイバーナイフの方が効率が良い治療が出来るのでは無いかと思います。
 関東近郊だと横浜のサイバーナイフセンター、あまり知られていないと思いますが、東京広尾の日赤病院にもサイバーナイフセンターはあります。母はそこの主治医にかかっていました。

 サイバーの主治医とはかなり密にコンタクトを取っていました。主治医の話だと、脳転移は点在して起こるのが普通で、逆に悪さをしないレベルの微小な転移は経過観察で良いそうです。放射線をあてる回数は少ないほど安全だと言う事。でもその主治医の考えが裏目に出て、母は小脳に出来た小さい転移から来る吐き気に数ヶ月も悩まされました。もっと早く処置をしてもらえればタルセバまで持ち込めてまだ母はこの世にいたのかも知れません。

でもその主治医とは充分なコンタクトを取っていたので恨む気持ちはありません。
それも含めて母の寿命だったのだと、運命だったのだと、今は思っています。

 医療は日進月歩だと言われていますが本当にそうあって欲しいですね。
同時に理不尽に認可されない薬剤が減っていく事も望みます。
 

2008年12月28日日曜日

2009年を迎えるにあたって

本当に久しぶりの更新です。
12月は思っていたよりものんびりと過ごしていましたが、ここに来て溜まりにたまった仕事が押し寄せて来て、辞めれば良いのに厄落としのような気分で大掃除まで始めてしまいました。
母のいない初めての新年です。
去年のお正月は今年もまた新年を迎えられて良かった、と母と話しました。色々あるけれど細々でもいいから生きていられればいい、と母は言っていました。その二週間後くらいに肝転移が分かりました。仕事の合間に聞いた母の留守電の声は今でも忘れません。
二度目のイレッサは効いていなかった、あなたの言う通りだった。今後の治療の相談をさせて下さい、と母は言っていました。

絶望的な気分の中仕事場に戻り、何事も無かったように仲間と会話をしている自分にびっくりしました。こういう状況に慣れていった部分もありましたが、自分自身が二分化されているような、変な感覚でした。

 あれから母の病状がどんどん下り坂になっていった経緯はこのブログにも書いています。
母自身の口から「こんな状態だったら早く死んでしまいたい」と再三聞かされました。私にとって苦しかったのは、母の辛さを少しでも肩代わり出来なかった事。完全に病床についてしまう前は抗ウツ剤も飲んでいました。
そんな中まるで運命のように日本に旅行に来てくれた母のスペイン人の友人。彼女は母の病気を知りませんでした。
来日して母のやせ細った姿を見て「何かがおかしい」と思ったようです。母の口から病気のことを聞き、ショックのあまり涙ぐみながら「人生はなんて不公平なの!」と言いました。
そう、人生は本当に不公平だと思います。何も悪い事していない、むしろ家族の為に一生懸命生きて来た母に何故人並みののんびりとした老後を過ごす事が許されなかったのか。本当に悔しいです。

彼女と母と一緒に旅行にも行きました。体力が落ちていた母は散歩も長い時間は出来ず、車中も宿でも寝てばかりでした。
「これが最後の旅行ね」と何度も言っていましたが楽しそうにしていました。三人で見た富士山は今でも瞼に焼き付いています。

俵萌子さんが先月亡くなりました。
母は俵先生が主催していた「1、2、3で温泉に入る会」の会員でした。この会は俵先生が乳がんになってから自ら発起した会で、乳がんの患者さんを中心に、切除手術をしていても皆で温泉に入れば怖く無い!をモットーに様々な旅行や会合を行っていて、母も二度旅行に参加しています。

 母が亡くなった際に会報用に母の思い出を寄稿して欲しい、とお願いを頂き、拙い文章を運営部に送りました。
ところが時期同じくして俵先生の乳がんの転移が分かり、会報がペンディングになりました、とのお知らせを頂きました。
先生の回復を願っていたのですが11月末に亡くなられたとの事、本当に残念でなりません。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。

僭越ながら寄稿した文をここに載せさせて頂きます。

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 母が末期の肺癌であるとの告知を受けたのは2006年3月の事でした。両肺に転移があり手術は不可能である事、抗がん剤治療の効果もあまり期待は出来ない、さらには余命は長くて一年だとも告げられました。それまで病気一つした事の無い母本人はもちろんの事、父も姉も私もその事実を受け入れられず、一気に闇の中に突き落とされたようでした。
 医師の余命宣告を大きく裏切り、あれから二年半、母はがんと戦い続けました。
色々な治療を試み、中には劇的に効く抗がん剤もありました。まるで病気の事を忘れたかのように元気に日常生活を送り、時には旅行で遠出をしたり、告知当初には思いも付かなかった安息の日々もありました。
 その薬が耐性となり他の治療に移行する中、病状はゆっくりと下り坂を辿り、2008年7月12日朝5時12分、家族3人の見守る病室で母は帰らぬ人となりました。67年の人生でした。
 
 明るく快活で表裏の無い性格の母には沢山の友達がいました。病気が分かってからもその友人達が常に母を励まし支え、最期の病床にも来客が絶えない程でした。
母の闘病に寄り添った二年半の間、思えば私にもどのような時にも支えてくれた家族や友人達がいました。人は一人では無いのだと、母は最後まで身を持って教えてくれたのでしょう。

 楽しみにしていた1.2.3の会の湯沢への旅行には行けずに旅立った母、これからはどこに行くにも一緒なのだと信じています。
 あなたの娘に生まれて良かった。今は悲しみの中にいるけれど、自分なりに精一杯、母にもらった命を大切に燃やし続けます。

2008年11月13日木曜日

 母が亡くなってから何度か母の夢を見ました。どの夢にも全部病気が分かってからの母の姿で出て来ます。
夢の中でも母は辛く悲しげな表情をしていました。きっとそれは私の頭の中で起きている出来事、亡くなる前の母の姿を鮮烈に焼き付けてしまったからでしょう。母が夢の中で私に会いに来てくれた訳では無いと思っています。

 ところが先日ようやく少し様子の違った夢を見ました。
父と結婚する前の母が私と一緒に買物をする、という夢でした。
結婚前の母は今の私より10才以上も若いのですが、夢の中で私は年下の母に「お母さん」と呼びかけていました。

 夢の中の母は溌剌としたとても明るい若い女性でした。
あるお店でペンダントを買う母を見て私は「ああ、この時に買ったのがこれなんだ」と思ったのです。夢はそこまでしか覚えていません。

 これ、とは母の遺品の中で私が一番気に入っている、母のイニシャルが彫刻されている小さい丸い金のペンダントです。裏には『8.Jun.1964』と彫ってあります。24才の母はきっと何かの記念にこのペンダントを買ったのだと思います。小さい頃良く母の胸にこのペンダントがあったのを覚えています。今は遺影にかけてあります。

 ほんの少しの間でしたが母に会えた気がしました。また母からは元気な頃の姿を見せる事で「いつまでも悲しんでいないで。私の病気はもう終ったの。今は楽しい頃の事しか思い出せないくらい安らかだからね」と言われた気もします。

 

2008年11月9日日曜日

もう11月

 久々の更新です。東京もすっかり冬の気温となり、朝晩は暖房が必要なくらいです。年々春や秋などの中間的な季節が短くなっていくのを感じます。初夏や初秋は一番好きな季節です。
 先日日光へ紅葉を見に行きました。あまりの人の多さに閉口しましたが、それ以上に圧倒的な紅葉の山肌にただただ感動するばかり。
ちょうど昨年の10月にも母と紅葉を見に白川郷や郡上八幡をまわりました。あれからたった一年しか経っていないのに随分前の事のように感じます。郡上八幡で人力車へ乗ろう、と母が言うのを私が貧乏性で「もったいないよ、歩こうよ」と言ったのに対して母は「もう二度と無いかも知れないから」と言い、一緒に乗ったのは今では切なく、尊い思い出です。

 母がこの世を去ってもうすぐ4ヶ月が経ちます。今になってどうしても会いたくなったり話がしたくなったり、様々な後悔や悲しみがこみ上げて来て情緒不安定気味になり感情がコントロール出来なくなる時があります。
 今年の4月末から強い吐き気が起こり起き上がれなくなり、入院、そのまま寝たきりになりこの世を去った母。67才と言えば現在ではまだまだ老後を謳歌出来る年です。
私のためでは無く、母自身の為にもっともっと生きていて欲しかったです。ようやく少し自由になれた老後をもっともっと楽しんで欲しかったです。

 生まれて初めての一人暮らしを経験している父は、想像していたよりはしっかりとやっています。娘たちには迷惑をかけないように父なりに一生懸命なのだと思います。月に一回は実家に3泊ほどしていますが、夕暮れ時になると庭でぼんやりとタバコをくゆらす父の姿を見ます。母が大切にしていた大好きな花でいっぱいの庭をキープしようと父は慣れない園芸も始めました。
花を眺めながら母の姿を見ているのでしょう。

 筑紫哲也さんが亡くなりました。
氏が番組で病気を告白した時、母はまだ生きていました。一緒にびっくりした事を覚えています。
分類までは発表されませんでしたが、氏はヘビースモーカーだったとの事、上皮扁平ガンだったのでしょうか。
いずれにしてもあらゆるガンの中で肺癌は本当に恐ろしい病気です。
 

 

2008年10月7日火曜日

悲しい別れ

 ここ数年仕事でご一緒させて頂いていた先輩が亡くなりました。
母の10才下で57才というあまりに早い旅立ちでした。
腎臓がんの再発から肝臓、肺、骨への転移があったようで、9月にお会いした時にはかなり辛そうな状態でした。
でも今年の三月に関西方面で一緒に仕事をして、終った後には散々飲んで騒いで、という事が出来たのに。。。病院で最後まで見送ったという奥様の憔悴しきった姿がとても他人事と思えず、お通夜では涙が止まりませんでした。

 あと一週間経つと母が亡くなってちょうど三ヶ月。早かったような、とてつも無く長かったような、そんな三ヶ月です。
母がいなくなって変わった事の一つとして、ガン関係のウェブサイトをマメに見なくなったという事があります。闘病中はほぼ毎日欠かさず新しい情報を探して、どんなに疲れていてもネットのチェックは欠かしませんでした。
 今はたまに見るくらいです。正直もう見る必要は無いのですが、一度でも深く関わった病気だけに、医療の行く先は気になります。

 このブログを読んで下さっている方の中にはご自身、もしくはご家族が闘病中の方も多くいらっしゃると思います。
何も出来ませんが、母の闘病中に私がお世話になったウェブサイトをほんの一部ですがご紹介出来ればと思います。
http://umezawa.blog44.fc2.com/
http://2nd-opinion.jp/
http://2nd-opinion.eee.ne.jp/
http://tugagu.blog34.fc2.com/

先上記三人の先生には母の生前、セカンドオピニオンを聞きに直接会いに行っています。
どの先生ももしかしたら医学会的にはマイノリティーなのかも知れませんが、ご自身の信念を持って治療に関わっていらっしゃる立派な先生でした。母は結果的にはどの先生の患者になる事も出来ませんでしたが(地域的な事情もあり)、セカンドオピニオンを聞けた事により主治医へのリクエストも出来て、何より自分自身の知識と納得の礎になりました。

 実家で母の部屋を整理しているとその頃の資料や書類が出て来ます。
保険診療では月一回しか計れない腫瘍マーカーを近隣のクリニックで自費で計っていた結果票、血液検査の結果のファイル、私の作成した主治医への質問ファイルとその回答、などなど。。。

 今更ながらに母も私たち家族も真剣に病気に立ち向かっていた事を思い出します。
でもたった二年半の闘病で母はこの世を去ってしまいました。本当に切ないです。

 海外では効果が立証されていながら未だ日本では認可されていない薬剤の数々、本当にもどかしいですね。





 

2008年9月27日土曜日

季節

 すっかり秋の空気になりました。朝晩は肌寒いくらいですね。
母が緩和ケア病棟に移った6月末は、これから訪れる盛夏を予感させる太陽がジリジリと照りつける頃でした。

 昨年の秋は母と岐阜の紅葉を見にドライブ旅行へ行きました。山肌一面の圧倒的な紅葉を見ながら一緒に蕎麦を食べたり温泉に入ったり郡上八幡で人力車に乗ったり。
そんな事を思い出しているとたまらなく悲しくなりますが、逆に行っておいて良かったと思う気持ちもあります。
思い出でどれだけ救われるかは分かりませんが、少なくとも無いよりは良いです。実際は旅行の間も「これが最後になりませんように」と祈るような思いもありました。
 闘病の間、母とは何度も旅行に行きましたがいつもそんな事を考え、楽しい反面の究極の悲しさのようなものを感じていました。


 母は67才で旅立ちました。親の死を迎えるにあたっていくつまで生きられたから納得して見送れた、というものでも無いとは思いますが、母の場合は平均寿命を考えるとあまりに早い死だったと思わざるを得ません。
 孫の成長を楽しみにしたり、夫婦水入らずで旅行に行ったり、習い事や趣味に精を出したり、どうして母には老後のそんな時間が許されなかったのか、その悔しさは今だに払拭出来ません。

 最近は亡くなる前の数週間の事をまざまざと思い出してしまい、苦しくなる事が多いです。夢にまで闘病中の母が出て来ます。
良く夢枕に故人が立つ、といいますが、私の夢はそういうものでは無く、自分の記憶がよみがえっているだけのようです。

 家族としては正直どんな状態でもいいから生きていて欲しかったと思っていますが、母本人はそれを望んでいませんでした。
「生きているというのは希望があって、美味しいものが普通に食べられて、副作用だの治療だのに悩まずに元気でいられる事」と亡くなる数ヶ月前の母は良く言っていました。その頃はウツの症状もあり精神科にもかかっていました。
 「こんな状態だったら早く死にたい」と言われる度にどうしようも出来ない自分自身に苦しみました。

 母は今安らかな安堵の中にいるのでしょうか。

 
 
 

2008年9月16日火曜日

月命日

 月命日は毎月訪れます。どれくらい重んじて良いものやら、今だに分かりません。
9月の月命日は一日仕事で、しかも何だか大変な出来事もあり、バタバタとしている内に思い出す事すら出来ない状態でした。
翌日から仕事絡みで早朝から地方へ行きました。
その車中で「あ」と思った訳です。
さすがに命日は忘れないとは思いますが、月命日でも忘れてしまう事は薄情だと捉える方もいると思います。
でも自分としてはほんの少しずつでもそれまでの日常に帰り、時間に雑事に追われているこの世を生きている姿を故人に見てもらえる方が供養になるのかな、なんて思ったりもします。

 それでも時折訪れる深い後悔や、単純に母に会いたくなる思いには抗えず、本当に悲しくなります。ある意味感情のバランスは完全に崩れているようです。一番辛いのは母が最後病院でどんどん日に日に衰弱していく様を不意に映像としてまざまざと思い出してしまう時です。
 亡くなる3、4日前のリハビリで「あと一ヶ月くらいでちゃんと歩けるようになりますか?」と理学療法士に訊ねていた時の母の声、表情、脳の治療が効を奏して食欲が戻った最後の数週間、「明日は何を食べようかな」といたずらっぽい顔で考える母の表情、それら全てが映像として現れて、たまらない気持ちになり叫び出したくなる事もあります。
 どこかおかしいのかな、と思う時もありますが、誰もがその様にして様々な形で支えを失い、自分のバランスを失って自分自身がオカシイのでは無いかと、思ったり、大丈夫だと確信したりを繰り返す。気付いてみればそれが普通の大人の人生なのかも知れません。


 母が亡くなってから初めて山に行きました。
関東近郊の低山でしたが頂上へのラストスパートはなかなかどうして、休みや休み行っても季節外れの大汗、息切れ、頂上に着いた瞬間、達成感と疲労で座り込んでしまいました。

 頂上には私たちととんぼ以外誰もおらず、少々ガスってはいましたが見晴らしも良く、気持ちの良い風が吹いて加熱した体全体を涼しくしてくれました。もう秋なんだな、と肌身で感じました。



 

 

2008年8月29日金曜日

納骨

 明日は納骨です。早いものでもう四十九日です。お墓は遠方ですので朝早く新幹線で行くのですが、嵐のようなこの天気...。
お寺さんに確認したら災害になる危険の無い程度の大雨ならば納骨は予定通り済ましましょう、との事。
でも新幹線が停まったら万事休す、です。
何とか予報を裏切る天候になって欲しい、と強く願っています。

 先日実家の母の部屋を少しだけ整理しました。
母は最後入院する寸前まで編み物をしていました。色々と多趣味だった母ですが、病気が分かってからは殆どを諦め、編み物が最後まで続けられた唯一の趣味でした。
 母は生前私に「私が編んでいるものは全部形見だと思って大事にしてね」と何度も言いました。
それが気になっていたので、手編みのものは全部圧縮パックに入れて、あまり圧縮しないように気を付けながら防虫剤と一緒に密閉しました。セーターやベストや帽子、数ヶ月前まで母が私の目の前で編み棒を持って編んでいたものばかり。触っているだけで涙が出ます。
姉や姪、母のごく親しい友人達で分けようと思っています。

 洋服やバッグ、その他諸々、、、あの旅行の時に持っていた鞄、着ていた洋服、などと気付いてしまうと思い出にふけってしまい、ついつい手が止まってしまいます。
まだまだ片付けられる時期ではありません。

 私自身の生活はすっかり日常に戻りました。
日々起きる色々な事を母に話したくなります。とても会いたいです。

 母は亡くなる数ヶ月前に病院へ行く車中で「もしも今はやっているスピリチュアルの話が本当だとしたら、私が死んだら絶対にあなたの近くで守っていてあげるからね」と冗談めかして言われた事があります。
 今の私にはアナザーワールドの事に思いを寄せる余裕もありませんが、母のこの言葉を信じて、母はいつも近くにいるのだと思う事で少し救われます。